「奈良・箸墓古墳築造、卑弥呼の死亡時期と合致 歴博測定」への批判

http://www.asahi.com/culture/update/0528/TKY200905280355.html
誤解のありよう山中博士に怒られる、の巻歴博の「古墳出現の炭素14年代」へのコメント(2)
卑弥呼ネタは胡散臭いというのは私の基本的反応なのだが。今回も例に漏れない様子。
歴博弥生時代のほうは一般的にどういう評価なのだろう。外野から(というか朝日の文化欄あたりを見ると)、あれが定説化しているような印象をうけてしまうのだが。史学雑誌の「回顧と展望」は読むのが大変だしな。
炭素14年代測定法についての話が興味深い。

炭素14年代には必ず、±何年、という幅がつきます。そして、国際的には炭素14年代のプラスマイナスは1σであらわすことが約束事になっています。たとえば、「B.P.1900±50」というような記載法です。しかしそれを「平均値を記載」ということで「B.P.1900」としてしまうことは明らかにルール違反です。グラフには表示してあるといっても、それは免罪符にはならないでしょう。それに、「B.P.1900±50」とは、B.P.1950からB.P.1850(わかりやすくするために西暦に直訳すると、紀元元年?紀元100年)の間におさまる確率が68.3パーセントということをあらわしており、あとの31.7パーセントはその範囲から逸脱することも充分にありえるのです。さらに、「B.P.1900±50」とは西暦紀元50年である確率が一番高く、西暦紀元元年や紀元100年である確率は低い、というものではありません。「B.P.1900±50」は、西暦紀元元年である確率と紀元50年である確率と100年である確率はまったく同じなのです。この点でも、「平均値を記載」というのはまったく誤ったやりかたなのです。
山中博士に怒られる、の巻

 昨日の授業でも述べたとおり、放射性炭素年代測定法の較正曲線を導くためには年輪年代測定法の確立が前提条件であり、それなしにはなんら科学性を確保できないのです。だから歴博がこの課題と正面から向き合うためには、年輪年代測定法を独自に開拓するか、すでに開発されたところとのコラボを組むか、それが不可能な場合であっても、伐採年代の判明している木材すなわち暦年代資料を複数確保したうえで、古墳時代にまで相互につなぎ合わせながら遡らせる試みを最初におこなわなければならないのです。
歴博の「古墳出現の炭素14年代」へのコメント(2)

まるっきり誤解していた… 元素による年代測定の後の±以降の数値はそういう意味だったのか。
しかし、年代測定の問題はずいぶんあやふやなのだな。想像した以上に。




地道な研究の重要性というか、ジャーナリスティックにとりあげられる考古学の問題は、三内丸山遺跡にもあるようだ。細かい分析や地域的な集落論が等閑視されたまま、「大きい・長い・多い」のキーワードだけが一人歩きしているという指摘。
佐々木藤雄「北の文明・南の文明(下):虚構の中の縄文時代集落論」『異貌』第17号 1999年5月1日


本筋とははずれるが、「縄文都市」に関して。

 このような「地域共同体」のあり方を地理的条件も歴史的条件も大きく異なる北東北にあてはめることはできないが、少なくともこの時期には三内丸山やチカモリ遺跡などの巨大遺構を建設、あるいは維持するに足る地域的なネットワーク、まさしく「集落群を超える共同祭祀の執行」を可能とする地域的な「メカニズム」が各地域で登場をみていた蓋然性はきわめて高い。

このような地域レベルの社会集団が存在し、それが集まって何らかの施設を営んだ。それが三内丸山遺跡とするなら、そこには「巨大集落=縄文都市」という単純な視覚ではなく、「中心地」としての都市的集落、縄文社会特有の都市的機能が析出できる可能性はあるのではないか。外野の人間として、そのようなことを思った。