創作活動と「晒されたもの負け」の恐怖。関連メモ

makaronisan.hatenablog.com
 「創作活動と「晒されたもの負け」の恐怖。」勝手に注解が、当該作品の解説も含めて納得しやすい議論かな。確かにネットは危険地帯だが、強さを強要するのも醜いのではないかと。
 その点で、このエントリには批判的。キモイって言われて傷つきましたって泣くのって、自ら「オタク」を否定してなくね?で、岡本太郎の言葉を引用している。しかし、岡本太郎に関しては久高島の祭「イザイホウ」と、島の風葬が殺された顛末なんて行状もあったりする。岡本的な強さというのは、一面で、そのような無神経さを孕んでいることを忘れるべきではない。
弱い表現者、繊細な表現者、それが存在していてもいいのではないか。強い表現者だけの世界というのも、それはそれで厚みのない、つまらない世界なのではないか。そのように思う。実際、岡本太郎の表現というのは、繊細さというのとは程遠いところにあるし。


いい加減に戦おうぜ、たまご野郎!
うーん、何と戦うの? どうやって? 実際のところ、このような空気のような悪意と戦うのは至難の技だし、戦ったら戦ったで新たな軋轢を産むだけのように思う。このような議論に関して、立ち止まって考えるというのが、一番重要なことなのかも。「断定」こそが一番怖いし、暴力的なのでは。たまごまご氏が表明した「悲しみ」とでもいうべきもの、そこから広がるものが重要なのではないかと。

しかし一方で、そういう理不尽な暴力と立ち向かい、そして勝利を収めてきたというのも、紛れもない人間の歴史なんです。ピューリタン革命、アメリカ独立戦争フランス革命ロシア革命ナチス大日本帝国に対するレジスタンス運動、ベトナム戦争公民権運動……そしてそれらの陰には、「弱者に対する理不尽な暴力」を見たときに、それを他人事の様に思わず、自分のことの様に思い、そしてその強者の暴力と戦ってきた、そういう勇者がいたんですよ。

まさにここにこそ、疑問を感じるというか。「革命」の後に起こった反作用とそれによる悲劇。それを鑑みると、何とどう戦うかが非常に難しい。例えば、ナチスドイツと戦ったフランスのレジスタンスは確かに勇敢だったと思う。しかし、その後、ドイツから「解放」された後で行なわれた親ドイツの人々に振るわれた暴力をどう考えるか。NHKスペシャル映像の世紀」で出てきた、ドイツ兵と関係した女性に振るわれた集団暴力の映像を見た時に、このような無邪気な言明はできそうにもない。


他、「キモイ」という言葉の持つ意味。
「キモい」についてみんなもっと真剣に考えるべきだと思う。
「キモい」と「表現」


追記:傷つかない技術:クリエータを有害な批判から守れ
こんな本がある模様。
エリック・メイゼル『傷つかない技術 “有害な批判”から身を守るための6つのカギ』

傷つかない技術

傷つかない技術

しかし、ここで言われたりするような割りきりができるなら、苦労しないよって気も…