本郷和人『武力による政治の誕生』

選書日本中世史 1 武力による政治の誕生 (講談社選書メチエ)

選書日本中世史 1 武力による政治の誕生 (講談社選書メチエ)

 うーん、なんと言ったらいいのか。他の著作を読んでみないとなんともいえないが、枠組みと実証の間が弱いように思う。史料編纂所勤務で史料の扱いには長けているのだろうけど。
 「権門体制論」批判が主体のようだが、どうも批判し切れていないように思う。このあたりの学説史は完璧に門外漢だが、それなりに当を得た枠組みだと思う。著者の認識は、「暴力」をどう捉えるかと、「文」と「武」を対置する二元論の二点で限界をはらんでいるように思う。

 これまで何度か書いてきたことだが、わたしはこの権門体制論を受容することができない。天皇が将軍を、朝廷が幕府を。いわば「文が武を」おさえこむ、という図式が納得できないのである。確かにお隣の朝鮮半島では「文」はつねに「武」の上に位置した。中国大陸でも戦時こそ「武」が重んじられたが、平時には「文」が権勢を握った。だが、両国は全国試験である科挙を実施し、いかなる出自であろうと(実際には、相当に富裕でなければ受験できなかったのだが)、才能に溢れた者を官僚として登用した。官僚組織の維持と強化を絶えず図っていた。p.13

 これに対してわたしは、鎌倉幕府を権門体制論の範疇では理解していない。キーワードは「自立」である。自立する王権として将軍を捉える。武家はもはや天皇の下位には甘んじてはいない。西に天皇が、東に将軍が並び立つ。幕府と朝廷とは形式の上では対等であり、実質的には、幕府がより上位の権力として振る舞っていると考えるのである。将軍は軍事力や警察権力を行使するのだが、国全体の政治も行うし、モンゴル来襲時に見られるように外交もつかさどる。禅宗の導入に見られるように、祭祀の主体ともなる。この視点に立つと、天皇権力に拘束されている六波羅幕府は、鎌倉幕府とは性格を明らかに異にしている。そこでわたしは六波羅幕府ではなく、福原幕府の成立を強調することにより、「清盛=武家政権のパイオニア」とする高橋説を補強したい。p.107

 このあたりを読む限り、著者は、権威、公、あるいはイデオロギーといったものに対して、感度が鈍いのではないかと感じる。何らかの形でオーソライズされない暴力は、永続し得ないし、統治手段としてはコストが高いものになる。この目に見えないものを、捉えたいと思っているのだが、なかなか難しい。
 フランク王国の王権が、メロヴィング朝からカロリング朝に移った事例が、好例だろう。カロリング家は、宮宰として実質的な権力を保持していたにもかかわらず、内部の権威ではメロヴィング家に取って代わることができなかった。ローマ・カトリックの支援を得、いわばキリスト教による鎮護国家を形成することで、新たな王になる権威を確保した。
 また、これはオーソライズされない暴力の弱さの例だが、アラブの遊牧騎士の政権の短命さがこちらの例になるだろう。一族を中核とした騎士集団は一時的には傑出した個人の下で、まとまっても三代程度で分裂し、解体していく。
 このような視点から考えると、少なくとも鎌倉政権は、十分な権威を調達するのに失敗したと評価できるのではないか。「王の二つの身体」という例えは陳腐で恥ずかしいのだが、承久の乱で、後鳥羽上皇の自然的身体の打倒には成功したものの、天皇制という政治的身体の打倒には失敗した。その結果、政治の主導権は手に入れたものの、鎌倉幕府は、朝廷や寺社の守護者として振る舞うことになった。この結果は、かなり重大だと思う。「体制」の生命力というものを過小評価するのは、それはそれで危うい。結局、かなり後々まで、武士は高い代償を払って、官位を購入し続けたわけだし。また、鎌倉政権は、荘園公領制に依拠したと言う点でも限界があったと思う。
 あと、「おわりに」の、「文」と「武」を対置する議論にも違和感がある。そもそも、ここで言う「文」というのは、南北朝の時点で生命力を失っていたわけで。なんでか、近代になって蘇ってしまったが、それは国学と言うイデオロギーを摂取した結果であり、本来別の存在で、分けて考えるべきではないだろうか。武家政権も、荘園公領制に依拠した鎌倉幕府、一円的支配の進んだ室町幕府、村落共同体に依拠した江戸幕府と、それぞれずいぶん性格を異にする。そこを、きちっと評価すべきではないか。


 本書は、全体とすれば、史料に通暁した人の歴史叙述だけに面白いし、手堅く描かれている。鎌倉時代の政治過程の議論は勉強になる。字の下手な右筆の話も面白かった。また、第五章の史学史も興味深い。一方で、理論的な側面では、ずいぶん素朴な印象をうける。確かに、実証は大事であり、学問としての歴史学がよって立つ基盤は、そこにしかない。しかし、一方で、解釈の枠組みがなければ、実証もできないことは、心に刻んでおくべきではないか。19世紀ドイツの歴史学者実証主義が持っていた問題点を、他山の石とすべきであろう。


 以下、メモ:

 幕府も同様に考えるべきである。それは現代の組織や官庁街のように、可視化された「かたち」をもって機能してはいない。物理的な「かたち」はない。そう極論した方が、草創期の幕府の実態に近いはずだ。頼朝の私邸がそのまま幕府のオフィスになっている史実が雄弁に物語っているが、幕府は結局、「源頼朝とその仲間たち」である。鎌倉殿と彼に献身する御家人御家人同士の仲間意識。生命を媒介とする苛烈な人と人とのつながりが、取りも直さずそのまま武士の政権であり、幕府だったのである。p.104

 ここは、そうなんだろうなと思う。主従の絆のもろさがあるからこそ、頼朝は官位を欲し、朝廷のシステムを借用することで幕府の形を整えた。逆に言えば、完全に自立した王権の形成に失敗した。私はそう考える。

 中国史の泰斗たる宮崎一定(一九〇一〜一九九五。明治三四〜平成七)は研究を進めるうち、中国史ヨーロッパ史に共通の事象を見出した。ともにまず都市国家が発達し、それが統一されて古代帝国が成立する。マケドニアやローマ、秦や漢である。ついで異民族の侵略が活発になって帝国は崩壊し、分裂の時代がやってくる。時期は三世紀ごろで、ここに中世が始まる。東西の端の部分で同じ動きが見られるということは、これこそはユーラシア大陸全体の時間の流れなのではないか。p.154

 うーん、古代・中世・近代という三分法は、ルネサンス時代に端を発する特殊ヨーロッパ的な歴史叙述の方法で、他の地域には、みだりに適用できないというのは常識ではなかったのだな。そもそも本家のヨーロッパだって、「近代」が長くなりすぎて、近世(Early Modern)と近代に切り刻んだりしているわけなのだが。マルクス主義全盛のころは、中国史に無理やり適用しようとして、生産性のない論争を繰り広げていたりしたわけだが。今はどうなっているのやら。
 あと、インドや中近東と言った、有力な文明圏が視野から抜けてしまうのが、日本の歴史叙述の問題点だと思う。