三宅理一『パリのグランド・デザイン:ルイ14世が創った世界都市』

 パリ関係の新書・選書のラスト。
 17-18世紀フランスの建築や都市計画の思想の発展を追った本。本そのものは難しいものではないが、コテコテの建築史の話なので他とどうつなげて考えるかが思いつかない。話がぶつ切り気味のせいか、どうも全体像が見えにくいというか。
 また、それ以前の中世からの「建設都市」とどう接続するかとか、喜安朗『パリ:都市統治の近代』や他の研究者によるパリと王権の関係や「ポリス」「統治」といったものとどう接続するべきか。歴史学と建築史の断絶を感じるな。第一章で取り上げられたリシュリューの町などは、前近代の建設都市の最後の方に位置すると見ることもできようし。


 取り上げられているトピックは、リシュリュー枢機卿によるリシュリューの街の建設、城館建設の発展、ヴェルサイユ宮殿の建設とその思想、新古典主義と建築、この時代のパリの都市計画の特徴、ルイ15世広場と穀物市場の建設。この時代の都市計画は、むしろ王権の権威の表現として行われ、現代の都市計画とは趣が違うのではないだろうか。実際、この時代のパリの住みよさや美観についての評判は必ずしも芳しいものではなかったみたいだし。ルネサンスバロックの都市計画との関連も気になる。このあたりは、技術史の勉強が必要だろうけど。


 以下、メモ:

 すでにこの時点で、ヴェルサイユは世界でも類を見ない巨大な宮殿へと変貌を遂げていたが、その実際の作業のプロセスは変更に次ぐ変更であった。建築家の大構想力を支えるだけの財源はなかったが、建物の躯体だけでなく、内装をきちんと仕上げていくための費用も捻出しなければならない。だから、ところどころに大理石の粉末をスタッコに混ぜて磨き上げた偽大理石や、絵具で大理石模様を施した木の柱などが用いられているのも頷けよう。材料や仕様の変更で費用を落とせるところはむしろ徹底していて、完成を急ぐためにコストダウンを図っているのが一目瞭然である。プロジェクトの管理サイドでは常に財布の中身と相談しながらことを進めなければならなかったのである。フランスの建築史家がヴェルサイユ計画のひとつの理念は「経済性」にあると苦し紛れに語っている理由はここにある。p.131

 意外と貧乏くさいヴェルサイユ宮殿。なんだかんだいって、「絶対王政」の王権って、割と貧乏だからな。戦争なんかで借金まみれだし。

 フランスにおける十七世紀から十八世紀にかけての都市整備の考え方は、それまでの中世、ルネサンス的な価値観から離れて、近代を前提として都市のあり方を示したという点できわめて重要である。都市なるものが、自然発生の集合ではなく、計画的営為の積み重ねとして認識され、しかもひとつの王国という国土の体系のなかで政治・社会的な核として人々の集住をともなって成立し、空間のうえでも人々の近代的な生活行為に見合ったスケールで構想される。都市としての格式を保ち、何よりも美しくなければならない。道を作ることは、単に人や馬車が通行するだけのスペースを確保するということではなく、それに付属した建物を含めた総合的かつ美学的な空間整備であることをこの「美装=アンベリスマン」の概念のなかに示したわけである。そこに要求されるのは、二十世紀の都市行政がしばしば行うような平面的な道路の建設ではなく、都市という三次元的な集合体のなかで立体的な発想で道を造るということでもある。p.171-2

 うーん、そこまで行っていいのかは疑問。「近代的な生活」というのがキモか。あと、この時代の都市整備は線にとどまっているようにも思うけど。

後の美学者たちが説く建築の「品性」(ビアンセアンス)について知っておく必要がある。わかりやすくいえば、品性とは建築がその内容にふさわしい表現や構えを示すということで、十八世紀半ばの建築理論家マルク=アントワーヌ・ロージエは「建物の装飾は任意ではなく、いつでもそこに住む人間の序列とか資質に関係し、人々がそこに認める目的に従わなければならない」と説き、「貧しき者は貧しいところに居住せねばならない」とまで言い切る。病院はそうした貧しい場所の典型であり、装飾もはぎ取った簡素なかたちにまとめあげられてるのはよく理解できる。p.195

 顕示的消費としての建築とでもいうか。前近代の建築には、そういう性格が世界の各地で濃厚だよな。権力を誇示する建物。

 同じような国王広場は、三部会をもつ地方だけでなく、中央のコントロールが効いた都市でも検討され、マルセイユやリヨン、ボルドーといった主要都市でも建議されている。なかにはマルセイユのように建築家ジャン・ビュジェによる大胆な楕円形広場の案をつくったものもあるが、実施にいたったのはリヨンだけであった。多くの場合は、中央つまり王室の補助金との兼ね合いで実施が左右されていた。
 それでも十七世紀の終わりのこの時代に、ルイ14世の騎馬像制作が都市計画の大きな引き金となったのは興味深い。都市内の広場を王の威光のもとに再編成し、この時代の価値観と美学を背負ったものに造り変えていく作業は、、単なる思いつきではなく、都市整備に対する明快なヴィジョンがあってのことである。「都市の美装」のもっとも格調ある表現として国王広場が造られ、アルドゥアン=マンサールをはじめとする王国の代表的な建築家がその美学を創り出し、さらに中央の王室対地方の議会という微妙な構図のなかでさまざまなインセンティブを与えていくやり方は、きわめて近代的な手法ということができるだろう。p.206-7

 どこまで明快なビジョンがあったかはともかくとして、社団国家のなかで王権がその影響力を地方に伸ばしていく動態的過程の一環として分析することはできるだろうな。最近は、この手のテーマでも日本語の文献が出版されるようになってきているが。