小川原正道『西南戦争:西郷隆盛と日本最後の内戦』

西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦 (中公新書)

西南戦争―西郷隆盛と日本最後の内戦 (中公新書)

 西南戦争を「大義名分」の観点から整理しているのが興味深い。
 西南戦争は、「西郷隆盛暗殺計画」から「政府への尋問の筋これあり」として薩軍が出兵している。「西郷暗殺計画」こそが薩軍大義名分であったが、これが戦争全体を特徴づけた。このような大義名分は鹿児島でこそ受け入れられたが、他の場所では名分として弱く、全国的な動きにならなかったこと。時期を待つとしていたのが、「暗殺計画」によって私学校が暴発する形になってしまったことが、敗因となった。政府軍も田原坂での戦闘によって戦力不足になっていたので、他地域での蜂起の動きがあった場合(特に関西方面で)、勝機はあったのかもしれないなと思った。
 また、この蜂起に主体となった薩軍の士族は、武士の特権や家禄の剥奪や不遇への不満から動いている、言わば保守反動的な性格を持つが、一方で、薩軍に加わった人の中には、海外に留学し、自由主義・民権的な思想を持つ人も参加していた。熊本の協同隊や宮崎の島津啓次郎や小倉処平のような人々も加わっていたことが紹介されている。藩閥による専制に対する批判が言論弾圧につながり、武力による政府転覆を狙う動きにつながる。そのような人々が、西郷の声望と実力に期待して集まってくる状況もあった。ただ、実際に西郷が明治政府を打倒することができたとしても、このような状況では将来の展望は暗かっただろうなと思った。現実に明治政府が残した成果以上の物は残せなかっただろう。
 言論により民権運動、国会開設の主張へと戦略を転じた板垣退助と高知士族の動きを描いた、第六章「西南戦争下の次なる抵抗」も、その流れで興味深い。ここから、国会設立、さらには日清戦争によるナショナリズムの高揚と政治的不満の海外への輸出という流れになるのだろう。


 西南戦争時の西郷隆盛がなにを考え、何をしていたのかというのは、見えにくいが、実際は監視下の軟禁状態に近い状況にあったという。薩軍の象徴として、自由に身動きも物を言うこともできない状況。厳重に「護衛」され、末期にいたるまで表に出てこなかったそうだ。西郷自身が表に出てくるのは、敗勢が決まった時期からで、事実上死に場所を求めていた状況が悲痛だ。


 以下、メモ:

 西郷とともに不平士族の頭目的立場にあった板垣退助は、薩軍とともに起つかどうかの選択を迫られたとき、名分がないことを挙げて渋った。西郷による「尋問」の目的の第一は、政府が企てたという西郷隆盛暗殺計画について糺すことにあり、それは私学校党の憤激をかきたてたが、その怒りの輪から遠のいていくとき、この暗殺計画が果たして挙兵の理由になるのかという疑問が生じた。それは「反乱」の広がりを制限することになった。
(中略)
 それでも薩軍が最後まで死闘を繰り広げられたのは、西郷その人の魅力によるところが大きい。「反乱」の名分は曖昧であったが、全軍の求心力はつねに西郷隆盛という個人が背負っていた。そこのこの西南戦争の特徴があり、悲劇がある。p.障ノ-障ハ

 名分の問題。

 桐野利秋は明治9(1876)年に語った「時勢論」において、時の政府を「金粉」や「綺羅」で表面ばかり着飾り、「利」に聡く「術」を恃み、「醜体」に目もあてられないと嘆き、「今の政府は国家の大双敵だと断じていた。かつて「人斬り半次郎」として維新の現場に居合わせた桐野にとって、「政府」と「国家」は分離して捉えられており、その政府は私欲を満たそうとする人々で占められているとみなされていた。
 石川県の石川九郎と中川俊二郎に語った談話では、西郷と自分は、日本は守勢に立つより「海外を伐つ」べきだと考えており、「征韓の事」を実現して「国声」を海外に振るえば、日本の評価が変わり、条約改正を容易にすると語っている。p.22

 これはダメだろう。下手な戦争をやれば国は疲弊しただろうし、欧米諸国の警戒と介入を招いただろう。その点で、慎重にふるまった新政府側の方が正しいと思う。
 まあ、実際に新政府の実力不足とか、明後日の活動、私欲というのはあったと思うが。実際、経済史などでは、近代の経済発展を政府主導と見ない考え方が強くなりつつあるようだし。

 建白書の特質は、政府の進める近代化政策の方向性に賛同しつつ、政府の問題点を逐一批判し、立憲政体樹立の必要性を説いたところにある。名分の曖昧さや理想の多様さが薩軍の特徴であったとすれば、次代の反政府運動を担う立志社は具体的な主張をもって、専制批判の系譜を引き継いでいった。p.212

 板垣退助立志社が、西南戦争中に提出した「建白書」の特質。自由民権運動の動き。

 西郷がかくも人々の人気や祈りを受け止めることになったのは、その人格の魅力や維新の英雄としての声望、政府に抗した反抗精神、そして「あいまいさ」によるのであろう。明治期に入ってからの西郷は、多くを語らなかった。その主義は倫理的であり、その地位は高く、その人格は多くの人をひきつけたけれども、思想は体系化されず、いわば神秘的な魅力を湛えた巨大な沈黙であり続けた。戦争下でも、西郷の姿は警備の奥に鎮まって見えにくく、兵士からも遠い位置におり、戦争目的もわかりにくいものだったが、その存在が全軍の求心力となり、その声望と力の可能性に多くの不平士族が賭けた、あるいは賭けようとしたのである。その「見えにくさ」と「巨大さ」が、多様な伝説の根源になっているのであろう。p.225-6

 西郷がなぜここまで人気があるのか。