- 作者: 小沢詠美子
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 1998/01
- メディア: 単行本
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文学や記録類から穴蔵が金庫・貴重品庫として使われた状況を、発掘記録から実際の穴蔵の遺構を解説する。
続いて、同じく耐火建造物としての土蔵と穴蔵の比較。大火の記録を見ると、両者とも結構燃えているが、穴蔵の数が多かったことを考えると、耐火性は穴蔵の方が優れていたとする。
「穴蔵経済事情」では、主に三井家の史料を基に、資材や建設費用、資産価値を明らかにする。三井家の江戸店が、多数の穴蔵を備え、10年程度ごとにかなりの大金を投じて修理を行っていたというのが興味深い。建設に100-150両、大修理に30両程度の費用がかかっていた。それだけの資金を投じるだけの効用があったということを示していて興味深い。
「穴蔵大工の正体」では、穴蔵を建造した「穴蔵大工」について。穴蔵だけでなく、雪隠や風呂、水路や橋など水に関わる建設全般に関わっていたこと、船大工との関連などが示される。
最後は、江戸から東京に代わり、近代化が進んでいく過程での穴蔵と穴蔵大工の消滅。
サクサクと読めるし、本当に頻繁に火災に襲われていた江戸の状況、さらには資産保全のために重視された穴蔵を様々な点から明らかにする。なかなかおもしろかった。
以下、メモ:
昭和五九年(一九八四)一一月一六日正午近く、東京都世田谷区太子堂の世田谷電話局前道路地下にある通信用ケーブル専用溝で火災が発生、半日のあいだ燃えつづけたのち鎮火した。しかし、火災の被害は建造物の破損にとどまることなく、都民の生活に大きな打撃を与えたのである。
情報化社会の動脈ともいうべきこの通信用ケーブル専用溝での火災は、家庭用・業務用の電話約九万回線を不通にしたのみならず、一時全国のオンラインがストップし、現金自動支払機が使用不能になるなど、銀行や郵便局といった約四〇の金融機関の業務も麻痺させることとなった。もちろん、110番や119番も通じなければ、ファックスやパソコンによる商取引もできない。情報網の大混乱ののち一般加入電話第一号が復旧したのは、結局火災発生から三日半後のことであった。これがいわゆる「世田谷ケーブル火災事故」の概要であるが、この時ほど東京の地下利用の功罪を思い知らされたことはなかったのではないだろうか。p.3
各種の線の地下埋設は、災害復旧の点ではあまり有利ではないな。個人的には、普通に空中線でいいと思うのだが。→世田谷局ケーブル火災
江戸で最も火災の多かった地域は、天保の改革のため天保13年(1842)に浅草猿若町に移転するまで、歌舞伎劇場の中村座や市村座のあった日本橋堺町・葺屋町かいわいであった。西山松之助氏の調査によると、この二つの劇場は、明暦の大火から移転直前の天保12年までの185年間に、33回もの全焼が記録されている(「火災都市江戸の実体」『江戸町人の研究』第5巻)。つまり計算上、5‐6年にに一度の割合で全焼していたことになる。しかも記録に残らないボヤまで含めると、実際の類焼回数はこの数倍になるだろう。p.9
ひでえ…
次に、穴蔵への信頼感を裏付ける史料として、三井家の記録である「永要録」の弘化3年(1846)の部分を紹介しよう。
台所穴蔵は、前から一か所あったのですが、近来たびたびの火災で大破損してしまったあとは、使っておりませんでした。ところが、御奥・台所とも、土蔵が一か所ずつにしか置かれていないので、これまで火災のたびごとに、御居間向きの建具、奥・その他台所道具類がだいぶ類焼し、はなはだ差し支えがあるので、この穴蔵を以前のとおりに使いたく存じます。p.68-9
穴蔵の建設費用が40両程度だそうで、それ以上の損害があったってことなんだよな。まあ、昔の道具類は結構高いから、焼けると損害が大きかったのだろうな。三井本店だと、高価な什器もあっただろうし。
こうした事情にまつわる怖い逸話が、喜多村信節著『嬉遊笑覧』に記されている。天和2年(1682)、幕府の超豪華巨大軍艦「安宅丸」が取り壊され、解体部品が一般に払い下げられることになった。そこで、柳原和泉橋の酒屋市兵衛という人物が船板を買い求め、穴蔵のフタとして使っていた。ところが、召使いの女性にモノが憑き、「私は安宅丸の魂である、はばかりもなく私を穴蔵のフタなんぞにして、卑しい雑人に踏ませるとは遺恨に思う」などと語りはじめたのである。驚いた市兵衛が「つくり替えいたします」と、頭を叩いて詫びを入れたので、憑きモノがとれたという。本当に安宅丸の幽霊が出たかどうかは別にしても、穴蔵と船板の関係をよく示す奇談である。p.91
船霊様あわれwww