川又正智『ウマ駆ける古代アジア』

ウマ駆ける古代アジア (講談社選書メチエ)

ウマ駆ける古代アジア (講談社選書メチエ)

 馬の家畜化から紀元前後あたりまでの、馬に関する文化の発生と伝播を明らかにしようとした書物。情報源が発掘遺物、副葬された馬や馬車、馬具などと各種の器物に描かれた絵画情報を主体にしているため、どうにも全体像がすっきりとしない。特に実物資料の類は、条件がよくないと残らないため、輪郭が見えにくくなっている。分布に偏りがある点をつなぎ合わせて、何となく模様が見えるなあ程度って感じ。おかげで、読むのにえらい苦労した。あと、文字情報がある時代は、文字情報も利用している。
 ウクライナのデレイフカの前4000年前の遺跡から発掘された馬骨とハミ留めから、馬の利用がユーラシア北部草原地域でこの時代あたりに始まったこと。続いて、第二章では車輪と車両の出現、第三章は古代の戦車の発祥を追及している。このあたり、考古資料があまりに断片的で分かりずらいものが。馬の文化に関わる様々な要素が、各地で発生伝播し、広域でかなり共通性の高い馬事文化が形成されていく状況を描きたいという意図は分かる。
 第四章と第五章が、ページ数も多く、本書の中核的な部分。第四章は中国の古代の戦車について、殷墟などで副葬された馬や戦車の発掘事例と古代の文献から検討している。春秋戦国あたりを頂点とする戦車の発展、馬と戦車の社会的な意義、馬に関する文化など。第五章は騎乗とそれによる遊牧、さらには騎兵による遊牧帝国の形成などを検証している。ユーラシア北方に広く拡散したスキタイ文化を中心に議論している。現在のような乗馬の形が出来上がるまでにも時間がかかっているというのが興味深い。最初はロバに乗るように尻の方にのって、現在のような背に乗るのはあとの時代だったり、鞍や騎射についても地域のコントラストや時間差があったり。蹄鉄と鐙はもっと後の時代に出現する。ヘロドトスのスキタイと『史記』の匈奴の記述の共通性やアルタイ山地のパジリク古墳群を中心とするスキタイ文化の墳墓の発掘成果など。あるいは匈奴に対抗した中国の騎兵の展開など。
 第五章は馬と人間の関わり、馬の文化についてのまとめ。馬の家畜としての特性、移動や軍事が、他の家畜とちがって重視されていること、威信や宗教の象徴としての馬など。肉や乳の利用が少なく、輸送のための利用が世界的に重視されていること。その結果、家畜としては雄が重要視される状況。あるいは世界的な馬の利用の文化の多様性。中国や中央アジアの何百頭もの馬が副葬されている墳墓の例が紹介されているが、なんとも想像を絶する状況。終章は、漢の武帝が求めた天馬や汗血馬などの話。
 各地で馬の骨は出ているのだから、発掘された資料をC14で測りまくれば、精密な年代の決定は難しくても、世紀単位くらいの時代は明らかにできそうだが。そのあたりはどうなんだろう。年代がはっきりとしない資料を中心に議論しているから、全体的な構図がどうもはっきりとしない。


 以下、メモ:

 交通・運輸・戦争・農業における馬の役割についてはいうまでもないが、さらに、馬は人とともに埋葬された。そして、神の車を牽き、あるいは神が騎り、神の使いでもあった。ときには神ですらあった。神への犠牲にもなった。食肉にしない、またミルクもとれるのに搾乳しない地帯が多い。騎乗以外の労役はさせない所もある。他の家畜とちがって雄の価値が高い。馬を表現した石碑や銅像、絵画はたくさんある。このような扱いをうける動物は馬だけである。これはどのような歴史上の理由があるのだろうか。
 本書はその中でも主に乗用とか牽引の実用面を通じて、東西交渉史の手がかりとしての馬について、私の考えをのべるものである。もとより、馬と人の深い永い歴史そのものと、馬の労苦についても想をいたしたい。p.8


 これらのことから、馬は前三千年紀から牽引獣になっていたことがあるのではないかと思う。
 出土骨も研究されているが、ウマ属の何かということ、さらにその雑種を判定することはむつかしい。雑種交配用に馬を飼っていたとの説も出されている。
 ともかく、本来野生馬がいて、その飼養が始まった所は、古代「文明」外、つまり都市地帯外の地であったから、馬が文明地に受けいれられ、牛やオナゲルにとってかわるのは、意外に遅かったのである。
 なお、印章図文でみると、四輪車は四頭立、二輪車は二頭立であった可能性がある。p.56


 基本型戦車完成と普及により、それに対抗して城壁の強化とか札甲(小札を編んだよろい)ができ、ハッティ人のアナトリア支配、印欧語族のインド支配など各地の統一王朝が成立したという。これらは、たしかに同時期におこったとはいえ、まだ具体的にはっきり因果づけられてはいない。平面が方形の都市もこの頃からが多いようである。そして古代戦車は戦士身分の象徴となった。
 全体として古代馬車は人間用である。物の輸送は牛車を用いていた。とはいえ、あまり重い物はまだ車では耐えられなかったようだ。p.67


 古代戦車は、後の火器以上に世界を変えたものであるといわれている。戦車は最初の複雑な武器である。つまり車両の製作・維持、馴らした動物を御すこと、専従戦士の長期にわたる訓練(現代軍隊でパイロット等の養成に巨額の費用と長い時間のかかることを想起されたい)。その結果、戦術手段としての「速度」の重視が初めて世界史に登場する。
 そして、戦車戦士の地位の高貴さ、冒険、英雄性、個人的勇気、武人的エートスを特徴とする人間、戦争を人生の内容とみなし、ほこり高く、他を下に見る人間が、発生した。
 そこから考えてみると、後の騎馬武者は戦車戦士の高貴な性格をより普及させたものだといえよう。ちょうどそれは、青銅という金属があまり多量に産するものでなく、後の時代の鉄が比較にならないほど多量であることとよく似ている。青銅器時代、戦場の花が戦車であり、鉄器時代のそれが騎兵であることである。p.74

 武人階層の出現と戦車。

 「馬書」というのは、馬についての本である。これは古代からある。人類は早くから馬について文字で他人に伝えるような知識の蓄積をしていたことを示している。
 古代に馬書があちこちにあるときいて、次のように思う人があるかもしれない。文字が普及していない当時、読み書きのできるような上層の人が本当に馬をあつかって馬のことをよく知っていたのか、単なる空論の書ではないか、と。
 しかし、何度かふれたように、古代において戦車の操縦は、上流人士必須の教養であった。騎馬の世界でも騎士という語が名誉ある地位を示すように、また中国聖天子の御者が諸国の領主であると伝えられるように、馬に関することは上流の人びとの技であった。実際の世話や調教労務には家来を使うことも多かったにせよ、かなりの部分は主人みずからおこなわなければ、いざという時に馬をあつかうことはできない。だから文字を知る上流の人びと自身、騎ったり御したりするのみでなく、馬に関する実務と知識は体得していたにちがいない。
 肉体を使うことの価値観は、比較文化上のおもしろいテーマであり、昨今の異文化摩擦という話題の中にもしばしば出てくることである。その中で、馬に関することは、他の労働とは別の面があるといえよう。あるいは労働とはみなされないことがあるともいえよう。p.146-7


遊牧の成立試論
 牧畜にかかわる作業は、時代による変化は基本的には少ない。羊をはじめとする牧畜の対象となる動物の、摂食、生殖、成長、搾乳などを管理する。また、放牧のばあいは、遠くへ離れてしまった動物を群へもどしたり、選んだ動物を群から引き出したり、他の人の所有の群と入り混じったら分けたりする。さらに、他の動物(オオカミなど)の襲撃から守るのも、大事な仕事である。
 しかし、柵もない自然の山野で放牧を行うばあい、馬や牛のような大型で脚の速い動物群を扱うのは、徒歩ではたいへんむつかしい。したがって、騎馬を採用するようになって、大型獣群の牧畜は本格的に可能となったのであろう。
 羊などは、徒歩でも一人100頭以上の飼育が可能であるが、騎馬で管理すれば、一人で1300頭の飼育が可能であるという。約10倍である。群が大きくなれば、より多量の草を必要とするので、より広い面積を必要とすることになる。したがって、移動距離は大きくなるし、隣人の群からも離れなければならない。このような段階を経て、移動生活に入っていくことになる。また気候が乾燥化したようなばあいも、より広い面積を必要とすることになる。また、特に農耕不適地だが牧畜は可能な山岳地などへ進出していくことも考えてよかろう。
 こう考えると、牧畜経済と社会において画期となる変化が、騎馬の技術をむすびついて起こったといえるのではないか。遊牧の成立である。定住の牧畜が先に起こったと考えるならば、遊牧が分離していくことを説明するには、このように考えることができよう。p.152-3


 結局、これらの例からメソポタミアへの馬の導入は一回だけでなく、何次にもわたった、と解すべきであろう。p.160


 ところが馬だけは未去勢雄(以下単に雄という)の価値が高い。
 近現代の例を先にいうと、ヨーロッパでは雄馬、雌馬、去勢馬いずれも使用している。モンゴルあたりでは去勢馬を、アフガニスタンでは雄馬を、アラブでは雌馬をというぐあいに使用する馬については異なっている。これは去勢の技術をもっているかどうかとは別のことで、習慣や好みによるらしい。p.167

 へえ、それぞれちがうんだ。

 ヘロドトスのいうスキュタイのころには、広範な草原地帯一帯に、類似した生活様式、騎馬遊牧文化が広がっている(言語および人種においては一様ではない)。これはこの後もずっとつづいていく。
 ヘロドトスのスキュタイに関する記述は、しばしば司馬遷匈奴に関する記述(『史記匈奴列伝)と比較され、次のように共通点が多いことが指摘されている。じつは二人の間には300年間の時間差と5000キロメートルの空間距離がある。
 その共通点を整理すると、次のようになる(林俊雄氏)。

  1. 農耕を行わない純粋の遊牧民である。
  2. 家畜とともに移動し、定住する町や集落をもたない。
  3. 弓矢を主要武器とし、全員が騎馬戦士である。
  4. その戦術は機動性に富み、かつ現実的であって、不利な時にはあっさり退却する。p.173


 匈奴はおそらく他族との連合軍として漢に当たったのであるが、草原地帯の勢力が定住地帯の古代帝国を圧倒する軍事力をもち得たのは、野蛮未開だから強いというようなことではなく、文字などがなくとも(匈奴では漢人が記録の役を担当していたらしい)同等な“文明の力”を持っていたからではないか。定住地帯の古代帝国(アッシリアとか七雄から)と同じものではないとしても、似たものがすこし遅れて成立したのではないか。生業も遊牧のみではない。農耕民もかかえていたのである。太古以来の自然発生的生業集団を超えた、多民族広域国家である。p.188-9


 蹄鉄は現在は、いわゆる馬蹄型の鉄片(軽合金もある)を蹄に焼きつけて釘留(装蹄という――蹄には神経がないので馬はいたくない)したものである。ヨーロッパでは幸運のシンボルとされており、近ごろは日本でも自動車の前にかざったりしている人がある。
 日本では馬のワラジなるものをつけていて、広重の絵などでみることができる。人間の草鞋と同様なものである。ローマ人は、釘留でなくかぶせる金属ワラジとでもいうものをつけていて、これをヒッポサンダルという。ヨーロッパ各地の博物館によく置いてあるから目にすることが多い。金持が銀のヒッポサンダルをゆるくつけて、落としてあるいた、との話が残っている。
 蹄の保護をどうするかは馬を使う人の頭をなやました問題であった。蹄の強い馬をえらぶとか、蹄を石の上できたえる、とか古代の馬書に記載がある。何かを塗る工夫もあった。地面の状態とか、その土地の事情にもよったようである。現代でも蹄鉄をつけない地帯もある。またロバにはつけない。
 現代主流の馬蹄型釘留蹄鉄は、前第一世紀のヨーロッパ、ラテーヌ期ケルト文化以来のものである。もう少し古い発明かもしれないが、ともかくヨーロッパ蛮族の発明らしい。蹄鉄はふつうの絵や彫刻の馬ではわからないし、鉄製品は腐蝕のはげしい遺物であって。確認は困難である。蹄鉄が世界中へひろまるのはずっと後である。日本へは幕末にはいってきて、明治以後一般化した。
 鐙の発明は中国らしい。甘粛武威雷台の後漢墓出土銅馬に鐙の痕跡があるというが、これは明確でない。現在、後四世紀西晋時代の湖南長沙金盆嶺21号墓に副葬された騎馬俑と、河南安陽孝民屯154号墓の金銅装馬具一式の鞍と鐙実物が最古の鐙として確認される。
 ただし片側(左)のみなので、上馬時に足をかけるだけのためのものかと推定されている。また左から乗降したこともわかる。全体に古代馬は現代人の感覚からすると小型でポニーの部類にはいるもので、サラブレッドより20-30センチメートルくらいは低いし、鞍がなければもっと低い。人間側の身長や敏捷性にもよるが、そんなに足かけが必要だったのだろうかと思うが、片側にしか鐙のついていないものが同じころいくつか存在する以上、そう考える他はない。湖南長沙21号墓と同じころらしい南京象山王氏墓地7号墓の馬俑では、すでに両側に鐙がある。樋口隆康氏は、騎馬の苦手な民族が発明したのであるという。五世紀になると朝鮮や日本でもたくさん出土する。ヨーロッパでは七世紀ころから確認されている。まだわからない点もあるのだが、ユーラシアでも東の方が古いのは確かである。p.202-3