山中恒『戦争ができなかった日本:総力戦体制の内実』

 日本の戦争準備、総力戦体制への準備とそれが日本経済に与えた影響を中心に、当時の状況を解説している。そもそも、この時期は輸出軽工業依存で、すべての原材料・資源を輸入に頼っていたわけで、とても戦争ができる経済構造をしていないよなあ。それなりのレベルで、重化学工業、高精度の工作機械生産、材料の品質、大量生産方式なんかを確保できれば、他の国だって重要物資の中には、輸入品に頼っていた国もあるわけだし、もうちょっと対抗できたかもしれないが。
 第一次世界大戦後から徐々に形成されつつあった総動員体制の法的準備、準備不足の中で日中戦争が勃発、戦争のための無理な経済運営、混乱と伸びない生産。対米英開戦前に、すでに日本の国内総生産は低下傾向にあったそうだが、さもありなんという。国民生活に多大な負荷をかけた以上、着地地点が見えなくてもひたすら戦い続けるしかなかったんだろうな。で、もがけばもがくほど、深みにはまって、他の国も敵に回していくという… このあたりの悲惨さは、もうなんと言ったらいいか。
 あとは厚生省設置のくだりも興味深い。福祉政策が、軍需増産のための政策であり、健康な軍人を供給するための政策であったこと。まあ、「福祉国家」が「総力戦国家」の副産物であり、国民を総動員する際の反対給付であったことは有名な話だしな。このあたり、『強制された健康』とか、最近はいろいろと研究がありそう。
 で、最後には失業者な中小企業の倒産などの社会混乱を乗り切り、正当性を主張するために「八紘一宇」とか、「平和の回復」とか空疎な言葉が氾濫する。本当にどうしようもない。
 ラストの物資総動員体制を作る上での、官庁のなわばり争いが興味深いな。1940年代に入ってからも、統制組織を誰が所管するかでもめていたという時点で、勝ち目はないわな。ただでさえ生産能力の低い方が、内輪もめで非効率になってどうするのか。これと対比して、アメリカの戦時資源局なんかにビジネス界の人間を大量に導入していたり、科学者が大ぜい協力している。このあたりの差というか、それぞれの組織の利害の調整をどのようにやったかのかは、非常に興味深いテーマだと思う。ドイツでは、親衛隊とか、空軍のヘルマン・ゲーリングあたりのナチス有力者が、内輪もめと資源の奪い合いをやっていたようだし。
 日本の場合、国家総動員と言いながら、事実上、ほとんどの階層から積極的な動員をうけることに失敗したのではないだろうか。ビジネス界、学術界などのエリート階層や一般の労働者層の本気の協力をうけられなかった。軍と革新官僚の独り相撲の側面は結構強かったのではなかろうか。協力する気はあっても、非効率な官僚的運営に邪魔されれば、意欲を失っていくだろうし。


 以下、メモ:

治安維持法」んの取り締まり範囲はきわめて恣意的なもので、日華事変に突入してからは、反戦的言辞も取締りの対象となった。当時、内務省警保局保安課の『特高外事月報』(極秘・部内報)の昭和12年7月分は、他の月より頁数が多く、取締り対象に「反戦的言動」が登場する。同報の取締り概要の中の一例に次のようなものがある。


――岡山県/反戦的造言/売薬行商小野義夫・当三二歳/概要/七月二一日岡山県小田郡今井村塩飽末野に対し(イ)最近の支那兵は仲々強く日本兵が相当殺されている、それに今度の戦争はロシヤ、アメリカ等も支那を援助するから戦争は大きくなるばかりだ。(ロ)日本は半年位の戦争で金は無くなってしまう。大和魂があっても金がなければ戦争は負ける敗戦になると敵の飛行機が来て爆弾で老人も女も死んでしまう。(ハ)大蔵大臣は開戦に反対したが、陸軍大臣が十円の税金が二十円になっても搾り取って戦争するといって遂に開戦となってしまった。(ニ)戦争の時の決死隊は志願のようにいっているが願い出るものは一人もなく、皆命令だ爆弾三勇士も命令で死んだのだ云々と反戦的言動を敢えてせり。/措置/(一)七月二二日検挙、岡山憲兵分隊に引き渡す(二)岡山区裁判所の後半に附され八月五日禁固三月(執行猶予三年)の言い渡しありたり―― p.54-55

 やけに的確な情勢判断ワロタ。売薬行商人だと、逆に情報通になるのかもな。

1999(平成11)年、「日の丸・君が代」を国旗・国歌として法制化した時、自民党は「日の丸は昔から国民に親しまれてきて、祝祭日には必ず各戸の門口に掲揚されてきたものであるから」と説明したが、実はこれは全くのでたらめであった。つまり日華事変が起きるまでは一般市民の暮らしの中に日の丸は浸透していなかった。精動主催の日の丸普及運動は、まず東京市を中心に実施された。もちろん全国にポスター2種51万枚、ビラ3種360万枚を各道府県、警察署、小学校を通じて配布させたが、東京市は2月10日紀元節前日に各区連合青年団の幹部を集合させて、次のような項目で実践するように命令した。


1、当日各区青年団国旗掲揚勧奨隊を組織して、メガホンで触れ歩くこと
1、国旗掲揚なき家に対しては親切丁寧に国旗を掲揚するように注意すること
1、本連盟作成の国旗掲揚ビラ35万枚を各戸に配布すること


(中略)
国民には皇室の祝祭日に限って日の丸の掲揚を許した。それで祝祭日のことを旗日といった。それもあって、1941(昭和16)年に文部省が制定した『礼法要項』は、日の丸掲揚の際は、「門口の右(門外からみて左)にたてよ」とか「祝祭日その他公の意味のある場合にのみ掲揚し、私事には掲揚しない。特別の場合の外、夜間は掲揚しない」等と細かく注意している。また『日の丸の国旗』(亘理章三郎・昭和19年3月・実業之日本社)は「国旗の正用と濫用」について、次の8項目を列挙している。


1、国旗は必ずこれを正用すべく、濫用してはならぬ
2、国旗は国家的な公の意義をもつ場合以外は、これを私に用いてはならぬ
3、国旗は装飾用として用いてはならぬ
4、国旗は卓子掛・窓掛・壁掛・天井蔽い・風呂敷などに用いてはならぬ
5、国旗を服章・徽章などに私に用いてはならぬ
6、国旗を手拭・風呂敷。椅子布団などの模様に染めだしたり縫いつけたり、紙拭片などに印刷してはならぬ
7、国旗を広告その他営利の目的に用いてはならぬ
8、国旗に文字や画を書き入れてはならぬ。絵画にした国旗でも、その中に文字や画を書き入れてはならぬ p.108-112

 こうして見ると、戦時体制の象徴として拒否する姿勢は、政治的異議申し立てとして正当なものなのではないかと感じる。「国旗に敬意を払うのは当然」という物言い自体が怪しいしな。

 そんな阿部内閣も電力の配給及び消費統制の必要を痛感した。組閣直後の9月1日、電力管理法を発動し、9月15日電力及びガスの消費節約の基本方針を決定し、国民に協力を求めた。電力を節約するために一般家庭ではこまめに消灯、ラジオは聴取時間以外は電源を切る(当時、テレビは無く、ラジオの放送時間も限られていた)、炊事用電熱器や電気アイロン、電気ストーブの使用を控える等、なんのことはない、今日のエコライフを奨励したのである。工場・作業場には休日・休憩・就業時間をずらして電気の負荷状態を平均化するように要請した。商店や営業所には、店内の電灯を節電、屋外のネオン、装飾、看板、公国灯等の新設増灯は絶対に中止し、既設のネオン、装飾灯等は全廃、その他のものも極力休止せよと命じた。エレベーター、エスカレーター等の使用は極力制限させ、市町村には街灯の灯数及び燭力の制限を通達した。とにかく実生活に必要以上のぜいたくな電気の使用を自粛させる等々、節電を呼びかけると同時に、ガスの節約も呼びかけた。夜の銀座は露天並みの照明しかできなくなった。p.142

 なんか既視感が。