渡辺尚志『浅間山大噴火』

浅間山大噴火 (歴史文化ライブラリー)

浅間山大噴火 (歴史文化ライブラリー)

 天明3年、すなわち1783年に起こった浅間山の噴火の被害に対して、人々がどのように対応したかを描いている。先日読んだ永原慶二の『富士山宝永大爆発』とよく似たテーマ。時代的には富士山の噴火の80年ほど後になる。火山災害、特に火山噴出物の堆積からの復興という点では、非常に似た性格を示す。特に、幕府と村の交渉や土砂の排除など。一方で、浅間山の噴火は火砕流による鎌原村の壊滅と、火砕流による土砂ダム形成と決壊の被害という劇的な展開が目を引く。また、両書の視点の違いで、『富士山宝永大爆発』が幕府全体の対応などマクロからの視点が強いのに対し、本書はむしろ被害を受けた人々がどのように記録を残し、どう対応したかに力点を置いている。宝永の時には記録が比較的少ないのに対し、浅間山の噴火では大量の記録が作製され、残されたのが特徴という。
 本書は、前半が災害の記録や解釈のついて、後半が被災地域の復興活動についての議論。
 前半では噴火の様々な記録について。各地の記録を紹介し、また噴火に対して、どのような反応を示したかを取り上げている。雷の習俗と結びついて鉄砲を撃ちまくった話とか、信濃側で被害が少なかったのは善光寺如来の加護だという言説が興味深い。
 続いての「噴火を解釈する」の部はちょっと微妙感が。火山の噴火や世界を解釈する枠組み、パラダイムがまったく違う時代の議論を整理するには、もう一工夫が必要だったように思う。五行説儒教的に解釈しようとすれば、結局天譴論になって、民間の見方と大して変わらなくなる。贅沢だけではなく、開発行為や政治の腐敗が、災害とつなげて考えられる。これはある意味では、人間の思考の基本的なパターンだよな。あと、社会が「贅沢」になった後に、災害が起こるというのは、前近代に貨幣経済へのコミットが深くなると、天災に対する脆弱性が強くなるといった点で一理あるのかもな。
 この時代に「浅間山噴火は天変すなわち自然界の運動法則によって起こったものであり、人間界の動向とは関係なく」(p.59)という議論を行った高橋道斎の思考が時代を突出しているように感じる。


 後半は救援活動や復興への動き。幕領、私領を分けて議論し、特に被害の大きかった鎌原村と芦生田村の復興活動について一章を特にもうけている。富士山の噴火と共通するのは街道の宿場の復興が優先されたこと。一方で宝永の富士山噴火では私領が少なかったうえに、上げ地で幕府に復興が一任されたのに対し、浅間山の噴火では幕領と私領で、復興対応の格差が出たという。
 また、村役人層などの地域の有力者の資金や物資の提供による救援活動や復興活動のコーディネート、幕府や藩相手の交渉や村内での意見のとりまとめなど、史料を残した村落上層の視点からの活動が興味深い。様々な人が救援活動に資金や物資を提供している一方で、金があっても救援に資金を出さない人もいて、あとで恨まれて放火されたということもあったらしい。
 御救い普請による水利施設の復旧工事など幕府の資金による公共事業や資金の貸出などが行われたのは、宝永の富士山噴火と共通する。
 火砕流に直撃されて人口の8割、耕地の95%を失った鎌原村、そしてその対岸で、同様に人口の6割、耕地の9割を失った芦生田村の復興過程を、それぞれ章を割いて議論している。前者では再婚や養子縁組を通じた家族の再構成や土地の均等配分による再建が行われたが、時間がたつにつれ、村内の格差が開いたこと。一方で、絶家率が2割以下にとどまった芦生田村では災害以前の土地保有関係が維持されたため、より大きな格差が存在したこと。近隣有力者の復興コーディネートなどが興味深い。文書では耕地の問題が大きく取り上げられるが、火砕流による植生の壊滅が、林産物の生産や駄賃稼ぎのための馬の飼料や耕地の肥料の供給など、生業の様々な側面に悪影響を与えたのではないだろうか。そのあたりを析出できないかなと思う。


 以下、メモ。

 別の記録によると、七月七日に、高崎では、高崎藩主大河内輝和の家中の武士たちが提灯二張を先に立て鉄砲隊を引き連れて陣装束で出動し、雷電のはためく空に向けて発砲した。町々の若者たちも、鉦、たらい、銅鑼、太鼓などを打ち鳴らし、鬨の声あげて町々を廻った。老人や女性は、町ごとに百万遍(念仏)を唱えていた、という(?-5)。
 高崎では、庶民のみならず、藩士によっても、鉄砲による雷追いが行われていることが興味深い。武士も鉄砲で雷が防げると本気で考えていたのか、それとも信じてはいないものの民心を落ち着かせるためのパフォーマンスを行ったのか知りたいところである。p.27

 雷追いの習俗。

 高崎藩は、文化五年に村外から移住者を呼び寄せて、耕作者がいない土地(手余り地という)のうち一一町余を与えた。残りの手余り地は、藩からの手当・肥料・種籾の支給を受けて、村人全員で責任をもって耕作していたが、村人たちは自分の所持地の工作だけで手一杯で、手余り地の手入れが行き届かず、十分な収穫が得られないありさまであった。
 藩では、手余り地を近くの村に割り当てて耕作させたり、近隣の者に引き受けさせたりしたが成功せず、文政七年(一八二四)ごろには移住者も残らず退去して、結局元通り二十四、五町が手余り地に戻ってしまった。こうして、村の状況は、経営破綻者の発生が手余り地をさらに増加させ、残った百姓の耕作負担を増大させて、その結果新たな経営破綻者を生むという悪循環であった。p.121

 南大類村の事例。火山灰の堆積による被害が経営破綻者を生むという状況。火山灰土壌になってしまうと、生産性は下がるのだろうな。