川内将芳『信長が見た戦国京都:城塞に囲まれた異貌の都』

信長が見た戦国京都 ?城塞に囲まれた異貌の都 (歴史新書y)

信長が見た戦国京都 ?城塞に囲まれた異貌の都 (歴史新書y)

 豊臣秀吉によって大改造を受ける前の京都、惣構に囲まれた都市であった時代の京都、その京都と天下人となりつつあった信長の関係を描く。
 前半三章は、天正年間に見られる、都市京都がどのように形成されていったのかを時代ごとに明らかにする。惣構の形成、町共同体の形成、日蓮宗寺院の繁栄。そのような戦国期京都の姿は、応仁の乱とその後の京都の治安の悪化に対応して出現した様子が描かれる。
 もともと中世前半には、様々な都市核を中心に市街地が形成される、散在的だった都市。応仁の乱で東軍は御構と呼ばれる城塞にこもって10年間にわたる包囲を耐えた。この時期に、市街面積は1/10に縮小する。さらにその後頻繁に起こる強盗と放火が、上京と下京を囲い込む防御施設である惣構の形成を促した。また、それに伴って京都の境界意識も変化し、明確な線を描くようになったことが指摘される。
 また、この時期は惣町・町組・町という階層構造を持つ都市共同体の形成期でもあった。この時期の史料は断片的で明確な流れを描くことはできないそうだが、流れを描いている。16世紀前半には、踏み込んできた侍を追い返すような共同体ができていたが、16世紀半ばになると町同士で戦争をし、さらにそれを仲裁する実力をもつ惣町に類するものが形成されていたこと。このような広域組織が酒屋・土倉を経営する人々を中心に、上から形成されたらしいことを指摘する。また、16世紀半ばの風流踊や1670年代の宮廷維持費を捻出するために町に貸し付けた資金関連の史料から、複数の町の集合体である「町組」がどのように形成されていったかを明らかにしている。町組が惣町など「上から」組織されていったらしいこと。全ての町を網羅するものではなく、親町・寄町というような一部の町の支配関係があったことを指摘する。
 第三章は日蓮宗寺院の繁栄の状況。日蓮宗が、京都において信者を獲得したのは応仁の乱以降のことで、武家や公家にも信者を獲得したこと。天文法華の乱によって、打撃を受け、その後は全方位外交に転じたこと。1565年に「十六本山会合」という連合組織を形成、信長をはじめ各政治勢力に対して、自己の安全を図る政治工作を行うようになったこと。逆にその資金力を信長に目を付けられ、安土宗論以降、資金を貪られたことなどが描かれる。
 第四章・第五章は信長と京都の関係を描く。信長が京都の都市内に拠点を築かず、寺院を一時的に利用していたこと。また、信長と浅井・朝倉両氏の戦いや足利義昭の対立のなか、信長は敵対した比叡山や上京に対して大規模な焼き討ち・略奪を行った。この結果、信長は京都の住民に非常に恐れられることになった(文字通り泣く子も黙る)。このような、京都住民と信長の間の感情的な溝、そして信長が自己の安全を過信していたことが、明智光秀の襲撃を成功させたのではないかと指摘する。ただ、この時、馬回りを2000人ほど連れていたはずだが。
 この関連だと、仁木宏『空間・公・共同体』を読んだくらいか。


 以下、メモ:

 たとえば、七口におかれた関のひとつで、公家の萬里小路家の収入となっていた御厨子所率分関などは、あるときには東山を越えた山科に、またあるときは近江国草津におかれるといった事実が知られているからである(『建内記』嘉吉元年十一月三十日条、嘉吉三年五月二十二日条ほか)。
 つまり、室町時代では、七口は必ずしも固定した場所を意味しないこともあったわけだが、東山を越えてすぐの山科はともかくとして、近江の草津までが洛中洛外というわけにはいかないであろう。ここからも、線ではない点としての境界が、相当に融通のきくものであったことがうかがえる。と同時に、そのような境界意識を室町時代の人びとは、さほど違和感もなく受け入れていたのもまた事実であった。
 このように、室町時代の京都、あるいは洛中洛外と上京・下京との関係というのは、その境界に注目したとき、かなりあいまいで漠然としたものといわざるをえない状態になった。つまり、信長が目にする戦国時代より前の京都はそのような状態であったわけだが、ところが、それにも大きな変化がもたらされることになる。そのきっかけは、京都に戦国時代の訪れを告げた応仁・文明の乱にあった。p.39-40

 室町時代までの「京」の境界意識の曖昧さ。いや、遠くまで行き過ぎだろうw

 また、右の事件では、周辺の町人たちや土倉の一家が弓矢でもって強盗団と戦った様子が見られる点でも注目される。応仁・文明の乱以降の戦国時代では、自らの身は自らで守らなければどうしようもない状況となっていた。そして、その延長線上に、洛中では社会集団、共同体としての町が成立していくことになるわけがだ、この点については次章でくわしく見ていくことにしよう。p.50

 村もそうだけど、このような共同体って、基本的に軍事団体なんだよな。

 つまり、これによって、元亀二年から同四年にかけて登場してきた上下京の町組に所属する町が、じつは当時の洛中にあったすべての町を網羅してなかったことが浮き彫りとなってくる。逆からいえば、町組に所属できなかった町の数がいかに多かったのかということを示すものといえよう。
 実際、それを裏づけるように、元亀二年七月の風流踊のときでも、踊に参加していた町人がおよそ千六百人もいた一方で、「町々の見物の衆十余万人これある」と『言継卿記』が伝えているように、それを見物するしかなかった町人の数もまた厖大であったことが明らかとなる。
 こうしてみるとわかるように、町組と町との関係というのは、単純に町が複数集まって下から町組をつくりあげていったというわけにはいかないだろう。むしろ、どちらかといえば、上から、つまり惣町のほうから特定の町々が編成されていったと見たほうはよいように思われる。
 実際、元亀二年の風流踊が上下京ともに四つの集団=四つの町組で構成され、そして元亀四年段階では、ともに五つの町組が存在しているなど、偶然にしてはあまりにも整然としすぎているからである。
 もっとも、仮に惣町が特定の町々を町組に編成したのだとしても、それがどのような原理でもって編成されたのかについてはわからない。ただ、それでもやはり注目しておかなければならないのは、このような惣町・町組・町といった組織、あるいは枠組みが一体として登場してきたのが元亀二年以降、つまりは信長が上洛して以降という点であろう。
 その意味では、信長の上洛は、洛中の町や町人にとっても大きな出来事であったと考えられるわけだが、改めてその接点の歴史をたどってみるとどのようになるだろうか。p.101-2

 町組が全ての町を編成していたわけではないという話。ある種の特権階級であったと。

 実際、そのことを示すように、このころの信仰のあり方は、師壇関係といって、ひとりの宗教者とひとりの信者とのあいだの一対一の関係で成り立っていた。つまり、江戸時代以降に一般的となる寺院と家といった集団同士で成り立つ寺壇関係ではなかったところに特徴がみられるのだが、したがって、同じ家のなかでも夫婦や親子で帰依する宗教者や宗派が異なることも珍しくはなく、そのうえ帰依する宗教者や宗派が転々と変わることすら珍しくなかった。
 このような状況はおそらくそれ以前にも、またそれ以後にも見られないと思われるが、それは逆から見れば戦国時代が庶民を含めた個人にとって信仰が欠かせないほど生きにくい時代であったことを示すものといえよう。p.120-1

 生きにくい時代かあ。まあ、そうなんだろうな。