日端康雄『都市計画の世界史』

都市計画の世界史 (講談社現代新書)

都市計画の世界史 (講談社現代新書)

 うーむ、悪い意味で教科書的な通史って感じだな。読むのにえらく時間がかかった。現在につながる「都市計画」に関してはともかく、前近代の都市に関してはかなり知識が不正確。参照している書物に60年代あたりの古い本が混じっているのもどうかと。プラーニッツの『中世都市成立論』が、適切な参照文献かというと、今となっては疑問というか。ヨーロッパの中世都市史に関しては、地域の中での文脈が重視されるようになっているし、「自然発生」的な都市が重視されるようになっている。また、地形や上下水道などのインフラにも目配りが欲しかったところ。
 もとが大学の教養的な位置付けの講義のために仕方ないかもしれないが、もう少し計画というか、地誌的に再現されたパターンの背後にある思想や世界観を重視すべきだったのではないだろうか。例えば、第三章の「格子割の都市」では、碁盤目状などの四角いパターンの都市を、ギリシア時代・ローマ時代の都市、中国の都城、日本の城下町、近世以降の欧米など、一緒くたに紹介している。しかし、地形を無視して碁盤目状パターンで覆い尽くすギリシアの都市計画と、中国の都城、地形に応じてブロックを形成しその中で格子状に町割りを作る日本の近世城下町では、それぞれがずいぶん隔たった存在ではなかろうか。
 とくに気になったのが、日本の都市に城壁がないという話。今に残っている平安京などの都城や近世城下町が、国内が平和になって城壁が必要なかったというのが、過剰に強調されているのではないだろうか。弥生時代の地域の中心となる都市的集落は環濠などで防御がされているし、戦国時代の都市はむしろ惣構と呼ばれる城壁が基本的に備わっていたと言ってよい。岐阜や小田原、京都、堺、関西の寺内町など、枚挙にいとまがない。そこまで調べていないが、近世初頭の城下町も惣構を備えていたのではないだろうか。平和な時代が長く続いて、都市がスプロール的に拡大していったため、現代の目から見て、城下町に防御施設がないように見えるというだけで。


 バロック式の都市計画からは、欧米にフォーカス。バロック式から、社会改良主義、工業化の時代、さらにメガロポリスへと話を進める。
 バロックの都市計画は17世紀あたりからオスマンのパリ改造、植民地都市での幾何学的な都市デザインまでを含む。この様式の都市計画は、居住者のアメニティよりも、景観を整えることを重視している。遠近法を利用したり、幾何学的造形によって印象的な景観を造り、それによって権威を表現した。そのため、むしろ植民地で大規模に多用されたというのが興味深い。
 続いては、社会改良主義の人々の都市計画。田園都市につながる系譜とか、近隣計画論について。ここを読んでいて思ったこととしては、この社会改良主義者の提案するモデルがどれも相当抑圧的だなということ。中央集権型というか、意思決定の主体が少なく、また変化に対応できないスタイルだなと。ハワードの田園都市にしてからが、三万程度の人口で工場や各種事業所を揃えるといった構想なのだが、この程度の人口誘引力ではうまくいかないだろうと思った。まして、ハワード以前の「ニュー・ラナーク」とか、「ファミリステール」って、生業の多様性のない、生産基盤を工場にしただけの、「村」だよねと思った。
 第六章は工業化による都市の拡張と人口集中による弊害と都市の成長の管理の動き。農村から流入した人々の住環境の悪化に対する公衆衛生的なアプローチが、イギリスの都市計画の始まりだったこと。各国の土地政策や区画整理都市計画法制定、ゾーニングなど。今から見ると、ぶっ壊して更地にして位置から造り直す感覚が強くて、嫌な感じだな。ヨーロッパにおける「建築自由」の否定など。
 最後は20世紀後半の爆発的な人口増大によるメガロポリスの出現の時代における都市計画。成長管理から経済の停滞に伴って巨大都市を経済成長の起爆剤にしようとする新自由主義の時代へと発想の転換
 ラスト二章あたりは、単純に展開を追うだけでなく、導入されてたさまざまな都市計画の手段がどのような政治的力関係でその形を取るに至ったかをもう少し、突っ込むべきだったのではないかと思う。都市計画、特にスラムクリアランスやゾーニングが排除の手段として利用された歴史、あるいは現在進行中の区画整理がその土地の生活者に大きな負荷をかけていることを考えると、そのようなさまざまな立場の人々の力学、思想的背景などを精査し、より生活者の考えに寄った都市計画を考えるべきだと思うのだが。


 以下、メモ:

 時代は下るが、格子割の機械的適用は十九‐二十世紀に行われたアメリカ都市の街割の場合も同様で、サンフランシスコでは、あまりの急勾配ののために車が通れないだけでなく、人の歩行も困難なために花壇などで覆われている道すらある。格子状街路は地形の変化に弱いというのは、古代も近代も変わらない。p.117

 そりゃまたすごいな…

 第四は、近代人の誕生である。都市成長の影響により、ギルドとその強制的団結が打ち破られた。また、専制国家の台頭で中世都市の城壁の中で集団を形成していた個人、自由な市民は国家の忠実な市民、あるいは、君主の臣下へと変わっていった。こうした環境変化が近代人を誕生させたと言われる。
 中世初期のヨーロッパ都市の城内では、中産階級の住民が住み、農民などは城壁外に住んでいた。封建君主やそのほかの政治的権力を持った人を除いては、ほぼ平等な関係にあったようである。ところが、中世後期の十四世紀中頃になると、こうした関係が変化し、少数の富裕な商人と貴族などの上流階級、中流階級の商人と職人、最大多数を占める労働者層の三つに階層分化した。都市住民の階層分化は都市の空間パターンに反映し、政治力・経済力を持つ上流階級が古くからの密集した中心部を買い占めた。たとえば、フィレンツェメディチ家は、都市の中心部に自らの銀行と大邸宅を構えた。その結果、職住一体の従来からの居住パターンは崩れ、住むところを失った多くの郭内住民は城外から通勤することになった。こうした職住分離の形態も中世都市の終焉を意味した。p.164-5

 いや、いまどきこれはないわー
 そもそも中世都市は最初から階級差を含んでいたのだが。でなければ、「都市貴族」なんぞというものは存在しえないと思うのだが。あと、都市の規模によるけど、よっぽどの大都市でない限り周辺の土地で耕作する農民は一定程度いた。

 同じ場所の共有はおそらくもっとも始原的な社会の絆であり、長期にわたる居住、不動産の所有によってより強固なものになる。また、空間的に近接するということが、危急の時、火事、災害、葬儀や祭典の場合などに協調する行動をとり、時に、友情や職業上の結びつきを生成する可能性がある。近隣はコミュニティという、「社会的にその共通のニーズや目的を達成するために意識的に一体となって働く人間集団」に転換しうる可能性を持っているのである。p.234

 どうだろう。コミュニティの強度にもよるけど、空間的に近いということ自体が持つ力は非常に弱いと思うけど。そもそも、共同体を維持するのは簡単なことではなくて、だからこそ祭祀やらなにやらの装置によって紐帯を強めなければいけないわけで。というか、チンパンジーの群れなんかを見ると、先にコミュニティーがあって、近くに定住するというのはずっと後になってからな話。しかも、生産基盤の共有や職業の共有といった繋がりもなく、ただ近くに住んでいるだけというところでできるコミュニティは果てしなく弱いものでしかないと思う。

 ゾーニング制の目的は都市環境の質を守ることにあるとしても、それは結果的には自己の所有する不動産の価値を守り、日常生活の不快を排除する手段として有効に働くので、とくに中産階級に受け入れられた。ゾーニング制の排他性の効用が、人種問題を抱える階層性の強いアメリカ社会に定着していった。p.287-8

 ゾーニング制度の背後にある人種差別の問題。あるいは排他性。