田迎神社の石造物

 平成駅前の区画整理地区から、少し東に外れた地域にある神社。このあたり、昔からの集落の雰囲気が残っていて、なかなか良い。あと、境内の石造物がものすごい勢いで補修・整備されているのが印象的。全部解説の石碑が付いているという。このあたりに石碑マニアがいたんだな。



手水鉢

 横の解説がなければ、摩耗が進みまくってさっぱり分からないな。

この水かんは今から三〇一年
前のものです。
元禄十四年(一七〇一年)に
園田次郎左衛門頼春が
寄進したものです。
    平成十四年七月
        宮総代 記


田迎天満宮社殿改築碑

 一九九一年の台風19号の災害で摂社の天神社が破損したため、それを修理した記念碑のようだ。

  田迎天満宮社殿改築碑
 平成三年九月二十七日全国を襲った台風十
九号の記録的(風速五二,六米)の暴風雨により
境内の大榎が倒木し社殿壊滅の大災害が発生
したのである。町内住民も家屋、花卉園芸施
設、農作物等に多大の損害を被ったが住民各々
の懸命の努力によって、その修復も概ね終了
したのを機に社殿再建の強い要望が盛り上り
田迎住民、その他各位の真心こもる浄財寄進に
よって、平成四年九月十九日学門の神、農耕の神
と敬れる天神の社が上棟完成し町民一同喜び
の中に鎮座されたのである。以上のことを後世
に残すためこゝに経緯を記すものである。


  平成四年九月十九日建立
    碑文 西田 勇撰

代表世話人
  田迎第一町内自治会長 松井正次
  田迎第五町内自治会長 奥田亦義
田迎神社氏子総代
  高木幸人 西田幸広 西田 繁
  園田一人 米村光則 徳本 譲


竿石

 元は石灯籠だったらしい。摩耗が進んだ石灯籠の下に、新しい石で由来を刻んでいる。

 竿石について
この竿石は、もとは石灯籠で
今から三三四年前のものです。
貞享元年(一六八四年)に
園田五兵衛頼宣が寄進した
もので、田迎神社の由来を知る
もっとも古いものです。
   平成十四年七月
      宮総代 記


堰と水神

 水路の改修か何かで撤去された堰の石材と水神様を境内に移設したもの。堰の柱はピンク色だから、馬門石かもしれない。平成の区画整理と関連しているのかね。

中島川堰を移転する
 平成三年一月 田迎一町内

  妙見水神祭祀由緒
 田迎神社一帯の小字名は妙見です。妙見様は
水神として崇められ、私達の生活に一日として
欠くことの出来ない「水」の神様です。田迎町には
東に冷水、西に妙見の地名があり昔は「水」が
湧いていたものと思われます。冷水には祠跡ら
しい跡があり、妙見の湧水跡は、昭和初年頃は
白蛇が棲み、溝には蝦蟇蛙(通称うしわくと)が
這い回っていた神木大楠の根元がその跡では
ないかと想像されます。


禅林寺板碑文書

 折損したものをコンクリで固めた本来の碑と、そのうしろの釈文を刻んだ碑がある。まあ、自分で読解しなくて済むのは助かるんだけどね…
 釈文の変体がなは、全部現在のものに変更している。

 田迎園田氏六代目禅林寺板碑文書拓本判読 西田勇拝
當寺ハ予が実家五世の祖田迎次郎左衛門頼元再建せし所なり當時頼元大庄
に當寺檀家なくして立かたからん事を憂いて村の者と相はかり田地を寄
屋に託して毎年米弐石八斗を寺に納めしむ近き日予もまた田地七畝を寄
これも庄屋に託して毎歳米二斗四升五合を寺に納めしむのに永
せる事は先祖墳墓の掃除忌日の茶湯等後年までも當寺にて願い
素志なり是らの事後に至り知がたらん事を思いて彫り置くもの
    文政八年一月(西暦一八二五)         田迎


七行共下部欠損


「天神森移植の記」碑

 …世知辛い。つーか、地域の記憶を根こそぎ破壊していっている感じだな。

  天神森移植の記
 ここ託麻平野の一角熊本市田迎町大字田迎字北八
反の地に天神森と言う森がある。その由来は詳でなく
おそらく我々の先人がこの田迎地区に集落を営み始
めた頃、この地に天神を祭り農耕神として夏の旱魃
は大雨による水害など天地自然の災害から村人を守
り、作物や集落の守護神として信仰された森であろう。
以来幾星霜朝に霜を踏み夕に星を戴き、雨の日も風の
紐寒暑を厭わず作物を育てる村人達の生活を見守
って来たであろう天神森である。
 星移り時変り歴史の流れと共に、わが田迎町も人口
増加、都市発展に伴い、地域地権者の総意により昭和五
十五年八月都市計画事業として熊本市南部第一土地
区画整理組合が設立され、田迎、出仲間、萩原、本荘、本山、世
安、十禅寺、平田の各町百十七ヘクタールの土地を区画
整理することに決定、田迎町字北八反の此地は新しく
花卉生産団地として造成することになり、その着工に
当り先人が残したこの天神森の樹木を田迎神社境内内
に移植し、先人の遺徳を継承し、今後農耕地帯から田園
都市へと脱皮し、発展を続けるであろう田迎町の姿を
これからも見守り続けて下さるであろうことを念願
し天神森の移植紀念として此碑を建てるものである。
  昭和五十八年十月吉日建之 田迎町田迎農区
   碑文 熊本市市議会議員 西田 統撰


淡嶋神社設立由緒書」碑

 摂社の淡島神社の由緒を刻んだ碑。平成の初めごろと、平成十四年の二つの波があるな。

  淡嶋神社(祭神少彦名の命)設立由緒書
 田迎神社北側に禅林寺とその境内淡嶋宮が
祀られていたと伝えられるが明治初期に禅林
寺の廃寺に伴い淡嶋宮社殿も撤去され御神体
天満宮に合祀されていたものであるが平成
の時代を迎え、区画整理事業の進展とともに
住民の増加は著しいものがあり、先人達が医
術の神、住民の守護神として勧請した、その意思
を継承し、独立した。社殿を造営したい」との機運
が高まり幸福を願う町内住民の心からなる浄
財が寄進され平成二年三月三日社殿が竣工し
多くの町民が見守る中に遷座の儀が行われた
のである。以上のことを後世に伝えるためこの
碑を建てるものである。
  平成二年三月三日建立
   発起人・碑文 西田 勇撰


「田迎神社由緒」碑

 鳥居の脇にある石碑。由緒を最後にしてはいかんなw

  田迎神社由緒
貞享元年九月(一六八四年)禅林寺境内に甲佐宮の御分霊を勧
請して、阿蘇甲佐大明神と称え奉り、里人の
信仰厚く、明治になって禅林寺は廃寺となり
田迎神社と改称して、この地区の氏神となる。
 御祭神 八井耳玉命、健磐竜命、外三柱
 例祭  十月十七日 田迎一町内
    昭和六十一年十二月吉日建之