鳩野宗巴胸像

 拝聖院の門前に建っている胸像。この場所は、西南戦争時に、西洋医術を学んだ藩医鳩野宗巴を中心に、この地で両軍区別なく治療を行った場所。ここが日本の赤十字活動の発祥の場とされている。




台座正面

鳩野宗巴


西南の役で拝聖院を本部と
して組織的に同僚等と自費で
敵味方区別なく日本で最初の
赤十字活動をした医者



台座裏面

平成十七年建立
 竜山病院
   山部則義



解説板

 細川藩医師団の赤十字活動について
 明治元年(一八六八年)維新戦争の時、明治政府は横浜に英国の軍医ウイリアム
ウイルスを院長に軍事病院を設けて戦傷者の洋式治療に当てたが細川藩は
鳩野宗巴を五カ月間、同所に派遣して治療と修業に当らせた。
 此の時に西洋医学と共に、当時ヨーロッパで設立された国際赤十字(一八六三年
スイスに設立)の敵、味方や身分、貧富等も一切差別しない医師としての博愛
精神も欧米の医師達から学んだと思われる。
 明治十年、西南戦争の時は鳩野宗巴は妙体寺町に医院活人堂、病室養生軒、
医学塾亦楽舎を構えて有名であったが、二月十九日、熊本城天守閣の炎上の時に
上林、上通、坪井と延焼、鳩野家も全焼。
 同家は明治維新の折の廃仏毀釈騒ぎで廃庵になっていた当拝聖庵跡に避難した。
二月二十三日、池辺吉十郎から攻城戦での戦傷者の治療を依頼された宗巴は、官軍、
薩軍の別なく治療する事を条件に承諾した。
藩医 河喜多宗磧、黄玄風、原田早春、村上又五郎、松岡独醒庵、狩野庄馬
 村井同吉らと八名で早速治療を開始、戦傷者の増加で病室が手狭になると
近くの梅木小学校、亀井の光照寺、民家四十一戸を借上げ、更に分院として白山
神社社務所と周辺民家三十戸を借上げて、同所には桑島見龍、松田喜福、池邉
健寿、林強の四医師を置いて治療した。然も皆、自費で行った崇高な医療活
動である。又、同地の婦人達は競って看護に協力、我が国で始めての戦陣での
組織的な女性の看護活動が行われた。
四月十五日、薩軍が御船、矢部と転戦すると、熊本隊、協同隊、龍口隊も全員が
行を倶にして人吉、鹿児島、宮崎の各地で戦ったが松岡独醒庵、狩野庄馬
村井同吉は陣中医として同行、八月十七日延岡の長井村で党薩諸隊の全軍
解隊して降るまで、傷病兵の治療看護を続けた。
これは、日本赤十字活動のはじまりといわれる、佐野常民、大給恒が官の裁可
を得て博愛社を設立し治療を開始した、
 五月二十七日より九十四日も前の事であった。
  平成十一年十月吉日
           熊本県医師会 会長 柏木 明