村上重良『慰霊と招魂:靖国の思想』

慰霊と招魂―靖国の思想 (岩波新書)

慰霊と招魂―靖国の思想 (岩波新書)

 うーむ。10日ほどかけて読んだので、最初の方の内容を忘れかけている。
 基本的には、尊王攘夷の活動家を顕彰するために幕末に新たに出現した「招魂」という祭祀が国家と結びついて拡大していく過程といった感じか。戊辰戦争の戦死者を慰霊顕彰するための施設として招魂社が設置され、それが靖国神社となる。他の神社と違い、陸海軍の管轄下にある神社として、他の神社とは独自に祭祀などが整備されていく過程。大日本帝国憲法下で、「宗教ではない」という建前で事実上の国教となった時代。さらに第二次世界大戦に至る戦時体制の中で、より神権政治的な体制になっていく状況。敗戦で「国教」の地位から転落するが、1960年代には復活の動きと、1960年代までの動き。
 各地の招魂社が藩単位の独自の地域性をもっていたが、徐々に靖国神社の下に画一的に統合されていく状況。あるいは、楠正成が幕末あたりから、新たに信仰されるようになったこと。天皇に忠誠をつくした者を顕彰するとして南朝方の「忠臣」が次々と顕彰され、神社が設立されている状況などが興味深い。
 ただ、全体の流れを理解するにはともかくとして、ここから自分で考えを発展させていくヒントとしてはちょっと難しいものがあるな。あと、目下の興味の中心である忠魂碑の類との接続はほとんどない感じだな。


 以下、メモ:

 靖国神社護国神社は、明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる七〇余年にわたって、この国を支配した近代天皇制の全構造を、あますところなく反映する宗教施設であり、それをつらぬく原理は、国体の教義、すなわち天皇への忠誠と死を、すべての国民のあらゆる行為の最終的な目標として設定する排外的な集団原理であった。p.�睨

 そうなんだよな。だからこそ、「大東亜共栄圏」が結局受容されなかった。ただ、本書は上からの構造に偏しているところがあるようには思う。

 一八六〇年代初頭の日本では、国民国家形成への歴史的条件がすでに成熟し、あらたな政治的統一への展望が現実のものとなりつつあった。大老の暗殺と攘夷の実力行動の続発に危機感を深めた幕府は、総力を傾注して反幕分子の掃滅を図り、それにたいして尊攘派は自己防衛と報復のテロで反撃した。幕府倒壊前夜の数年間、日本をおおったこの政治的極限状況は、凄惨な流血で満たされており、倒幕、佐幕の両勢力のあいだには、報復と憎悪の念がみなぎっていた。靖国の思想は、こういう歴史上の特異な一時期に普及した国事殉難者の招魂の思想を原型として形成された。それをつらぬくものは、どこまでも敵と味方を峻別し、自派が生きのこり勝つためには、手段を選ばず敵を斃さなければならないという、苛烈な政治抗争の論理であった。p.4

 この偏狭さが、靖国の限界なんだよな。

 幕末の国事殉難者である志士草莽は、天皇への忠誠の模範として、その志を天下に表すために祀られるとされていたが、現に進行中の内戦で忠奮戦死した者については、その死を「深く不便(憫)」に思うとの天皇の仁慈が、合祀の理由とされていた。天皇戦没者の合祀は、個々の将兵の内発的な意思よりも、忠奮戦死の行為じたいへの天皇の「叡感」に発していたのである。非命にたおれた将兵の「忠敢義烈」は、天皇から「士道の標準」と評価され、その招魂と合祀は、いまなお生きて戦っている将兵への大きな励ましになるはずであった。p.30

 上からの死者の顕彰ってのは、結局、忠誠を確保されるための道具になると。

 御霊信仰が民間にひろく普及するとともに、災害、海難等の事故で変死した者は、とくに手あつく葬り、その死霊を招き慰めて怨念を晴らし、祟りが来ないようにする宗教習俗が定着した。なかでも戦争は、そのたびに無残な死者をつくりだし、その死霊は、敵味方の区別なく、怨霊となって祟ると恐れられた。古代末期から中世をつうじて、戦乱がおこるたびに、戦闘のあとでは、祟りを恐れて戦死者の供養が行われるのが常であった。仏教の怨親平等の思想も浸透して、戦死者は敵味方を問わず、あつく供養された。元寇のさいには、戦跡に蒙古塚がつくられ、南北朝の動乱では、足利尊氏が、元弘の役以来の敵味方戦没者の供養のために、全国各地に安国寺利生塔を建立した。戦国時代にも、敵味方供養の碑が各所につくられており、勝利した側が、敵方の死者を祀った事例が少なくない。朝鮮の役では、出陣した島津義弘、忠恒(家久)父子が、一五九九(慶長四)年、高野山に朝鮮の陣の弔魂碑を建て、「為高麗国在陣の間、敵味方鬨死軍兵皆令入仏也……」と記して、敵味方の戦死者を弔った。敵味方をともに弔祭する行為は、祟りを恐れるという切実な動機から発するものではあったが、同時に、日本人の心に人間の生命を尊び他者の死を愛惜する、ゆたかなヒューマニズムをはぐくむことになった。死んでしまえば敵も味方もない、という人間観は、支配者のために戦場に追いやられ、なんの恩怨もない敵を殺さねばならない民衆の生活感情に根ざした健康な感覚であり、原始社会に発する民族宗教固有の排外的な集団原理を超える契機を内包していた。p.54

 まあ、基本、勝ったほうの勝利宣言的な感じもあるがな。まあ、それでも靖国神社の思想の偏狭さは明らかではある。

 別格官幣社の出現は、天皇への忠誠を基準とする新しい神道を形成するうえでの重要な一歩を意味した。p.78

 伝統の創造。

 こうして一八七四(明治七)年には、各地の招魂社と招魂墳墓を、とくに明治天皇の意向によるとして、政府が直接管轄する態勢がつくられた。東京招魂社では、内戦の戦没者は、天皇のために忠死した神霊であったが、各地の招魂場では、戦没者は、藩兵の戦死者として旧藩主への封建的忠誠のゆえに祀られているのが実情であった。廃藩置県が実現すると、政府は国費を投じて、地方の招魂社を掌握し、天皇への忠誠心の普及浸透に役立てようと図ったのである。こうして、中央の招魂社と地方の招魂社、すなわち、後年の靖国神社護国神社とのあいだの密接不可分な関係の原型が、この時点で設定された。p.90

 護国神社靖国神社の関係。