原淳一郎『江戸の旅と出版文化:社寺参詣史の新視角』

 近世の旅行に関して、出版文化が与えた影響を議論している。地誌類や紀行文などが取り上げられる。第一章は概括的な文章。第二章は「武家の聖地」となった鎌倉を取り上げる。水戸藩が編纂した『新編鎌倉志』が水戸の考証学への信頼から権威を持った書物として認められ、多くの文人が参照したこと。結果として、「名所の生成」を妨げ、固定化をもたらしたと指摘する。
 第三章は往来物、特に参詣系の往来物の出版歴を検討し、このような往来物が旅行案内的な機能を強く持ったこと。有力な名所案内が出現したフィールドでは、情報量では勝ち目がないので出版が行なわれないこと。これらの往来物の影響を受けて、地方文人が自分の住んでいる土地の地誌を往来物の形で著すことが行なわれるようになる状況を明らかにする。
 第四章は地元出版の出版活動として、金沢八景をめぐる能見堂と金龍院の活動を扱っている。名所形成のために能見堂が由緒を盛んに宣伝したこと。さらに、能見堂と金龍院の名所の中心をめぐる主導権争いの表現としての出版活動。
 第五章は、「名所認識」を紀行文から析出しようと試みている。国学者のネットワークの中で共有される旅の情報。その中で伊香保国学者の中での名所になっていく状況。また、公家の紀行では、江戸への公用旅行の途次に名所をめぐっているが、その知識レベルが浅いことを指摘する。
 まとめとして、地誌を中心に紀行文などさまざまな情報が旅行に際して参照されたこと。一方で、書物に書かれた情報が訪れる旅先を限ってしまう、逆方向のフィードバックもあったことを指摘する。
 近世の出版と旅行への関係を論じる点が興味深い。ただ、書物を中心として論じることで、逆に議論が知識人層の世界にこもってしまった感があるように思う。知識人層が地誌類などを参照して、主体的に訪れる先を選択しているのに対し、庶民はガイドブックで紹介された場所を訪れている状況と、対比的な見方をしている。

 一方で、庶民はどうであろうか。彼らの歴史的・地理的知識は、基本的には民俗的知というほかない。たしかにミクロな訪問先の選択については一定の自律性を見いだせる。しかし伊勢参宮や鎌倉参詣においてその行動がおおむね画一的であるのは、やはり歴史的知識・地理的知識、和歌(歌枕)の素養の不足に大きく起因するといわざるを得ない。また伊勢参宮モデルルート論のようなマクロな点では、村や家のなかで語り継がれてきた伝承や、講の習慣、道中日記などに依存してルートが選択されている。p.184

つまり庶民の場合、紀行文を読みこなせなければ、必然として自律的に旅の行程をくむことは難しいということになる。近世の庶民の旅が画一的であったのも、こうした事情による。道中記・名所記でカバーする主要都市・街道・巡礼路をはずれる旅をすることは庶民には困難であった。p.189

 そもそも、庶民の旅において、行程が「画一的」であることに意味があったのではないだろうか。特に巡礼に関しては。そもそも、大方が、講による半ば公的な旅行であることを考えると、同じ旅路を旅することに意味があるのではないだろうか。現在でも、修学旅行やパック旅行など、そういう画一的な旅行の形式が存在するが、そのような旅行が自分なりに検討して名所を調べに行くものではないように、庶民の伊勢参宮などの旅行は、そもそも個性的である必要がなかったのではないだろうか。そこのところがちょっと気になった。


 以下、メモ:

 水江氏が指摘する十七世紀後半は、交通環境が非常に整備されていった時期でもある。寛文三年(一六六三)には町飛脚が許可されて定飛脚問屋が成立し、旅の携帯品を軽くすることが可能となった。元禄七年(一六九四)には助郷が改革されて制度として確立し、享保元年(一七一六)には諸街道の呼称が正式に決定された。関東甲信越地方各地の民俗調査にもとづくと、路傍の道祖神が多く造立されはじめるのが元禄期頃であり、これは村と外部を分かち結界を明示する必要性に迫られてきたということを示している。これには二つの意味がある。一つには村に入り来る人々が増えてきたこと。二つには近世に入り人々の定住化が進んだため、来訪者を差別し排除していく意識が生まれていったこと、である。久留島浩氏が村が由緒を語りはじめる時期としたのも同時期であるから、その意味では原因を一にしているといえよう。p.21

 17世紀後半の画期。交通制度の発展と定住化。

 この時期の文人層は十七世紀までの知識人とくらべると、日本の歴史や祖先、自然、生活環境に対して感傷的であるところに一定の断絶を見出すことが可能である。十九世紀に考証主義・復古思想などが顕著になったことについて、郷土史の先駆けと評価されることもある。それは名所図会や地誌の編纂だけではなかったのである。p.91

 メモ。