大谷正『日清戦争:近代日本初の対外戦争の実像』

日清戦争 (中公新書)

日清戦争 (中公新書)

 日清戦争の通史。著者は、『兵士と軍夫の日清戦争』など、地域との関係、メディア状況などの観点から日清戦争を研究してきた人物。ずいぶん、日清戦争のイメージが変わる。なんとなく、普通に快勝したって感じだと思っていたのだが、開戦から、戦闘中、戦後処理と、どこもかしこもグダグダだったんだな。特に、開戦時、終戦時の外交の拙劣さが印象的。
 第一章が開戦にいたる前史。東アジアの国際環境の解説。第二章が開戦にいたる日清を含む交渉の動き。三章、四章が実際の戦闘に関する叙述で、朝鮮半島での戦いから満州に入っての戦闘の流れ。五章は戦争をめぐるメディアや兵士を送り出した地域との関わり。六章が終戦から戦後処理、台湾征服戦争。新書サイズの本に、内政、外交、軍事、メディア、国民形成、植民地の抵抗といったテーマが盛り込まれていて、かつスムーズに読める。バランスの良い叙述。


 最初の二章は戦争前の国際秩序と開戦への流れ。朝鮮半島をめぐる清と日本の角逐、さらに極東に勢力を拡大しようとするイギリスと南下を狙うロシアのグレートゲームという、二つの軸が存在した。1882年に、朝鮮の開国後の経済の混乱の中、在来軍隊の兵士の蜂起から始まる壬午軍乱、さらに1885年の甲申政変などの事件が発生し、日清は対立する。しかし、ロシアの南下を警戒し、日清英三国の暗黙の協調体制が出現し、10年ほど維持される。
 この時期のロシアの状況も紹介されるが、極東ウラジオストクを中心とした地域の維持には、海路による補給ルートが基本であり、極東で軍事的緊張を発生させる外交政策を取れる状況になかったこと。むしろ、艦船の整備を長崎で行うなど、日本への依存状況がかなりあったことが紹介される。シベリア鉄道完成前と後では、ロシアの連絡体制がずいぶん違うことは、気をつけておくべきことだな。
 協調体制が存在したにもかかわらず、無理に無理を重ねて、日本が開戦に突っ込んでいく状況も興味深い。帝国議会において、民党の攻勢の前に、藩閥政府は守勢に立たされる。不平等条約改正問題では、対外硬派が台頭する。さらに、外相陸奥宗光は、改正交渉に失敗し、政治生命の危機に立たされる。このような状況の中で発生した東学党の蜂起が発生する。清の介入にあわせて、日本側は、在留日本人保護の目的には過大な規模の8000人の混成旅団を送り込む。しかし、この時、東学党の側は、諸外国の干渉を怖れて、和議を結んで、帰農していた。しかし、藩閥政府の首脳、伊藤博文陸奥宗光は、何の成果もなく撤兵できる立場になく、清との開戦を決意する。いや、政治家の地位維持のために戦争を始めるとか、最悪の始まり方だな。イギリスやロシアの介入で、一時期開戦の動きを止められたりもするが、最終的には清国内の主戦派と穏健派の対立が、日本側に清の開戦の決意と誤解させ、開戦に。どっちもグダグダだな。


 中盤、三、四章は朝鮮半島から満州方面での戦争。印象的なのは、師団長クラスの前線指揮官の暴走。大本営や軍司令部の指揮を受けつけず、独断専行する姿。平壌攻撃に、数日の食糧しか持たずに突撃したり、満州では予定と反対側に進撃したり。後方で制御する側は、相当に苦労したようだ。あと、清軍の精鋭部隊は、小銃・山砲ともに、新型の砲を装備し、火力で優越していたという。平壌攻撃では、清側の火力に苦しめられ、混成第九旅団などは戦闘力を失っていた状況が指摘される。結局、主戦派の左宝貴が反撃に出て戦死した結果、清の平壌守備隊は撤退しているが、これが一週間ほど粘ったら、負けていたのは日本側かもな。で、ここで負けていたら、日本のその後の運命はどうなっていたか。
 満州においても、前線指揮官の独断専行。直隷決戦に向けた兵力節約のはずが、前線指揮官の要求で戦線を広げ、真冬の大戦闘に。結果として、軍夫を中心に大量の凍傷患者を出すことになる。北京近辺の直隷地方に、日本軍の全戦力を送り込んで、直隷決戦を行うのが、当初からの日本軍の作戦方針であったが、その場合、本土の兵力はほとんど空っぽになって、イギリスなどの介入の恐れがある状況では、非常に危険な賭けであったことが指摘される。
 また、1980年代の軍備拡張で、日本軍が外征戦争を遂行する能力が整備されるが、兵站部隊は中途半端で、日本軍の機動力を制限したという。実際、平壌攻撃の時には、平食・戦闘口糧で4日分だから、危機的な状況だよな。しかも、朝鮮の民衆は、非好意的で、徴発して輸送労働に従事させるのは困難だったという。


 第五章は戦争とメディア。さまざまなメディアを通じた戦地との情報のやり取りが「国民」を形成していく姿。朝日新聞、時事新報、国民新聞などの大手新聞社が多数の記者を送り込んだり、写真家や画家を送り込んで視覚メディアで戦場を伝えようとする。このような戦争報道で、大手新聞社は部数を伸ばしていく。
 また、戦争と地域の関係が広範では紹介される、戦争が始まると各地で、士族・撃剣団体、民権派、侠客などが義勇兵を組織しようとする。これは、正規軍を中心とする方針に反するので禁止されるが、兵站を担う軍夫募集運動に転換していく。また、地域と戦地を結ぶメディアとして、地方紙、そして戦地から地方紙に投稿された手紙の意味を紹介する。地方紙と投書を通じた、情報の双方向の動き。あるいは、戦死者の追悼をめぐる、対立。護国神社は、戊辰戦争で官軍の側に立った人間だけを祀る。東北の人々にとっては、征服者を祀ることになる。日清戦争以前の死亡者を除外する形で妥協が行われたり、追悼を通じた諸活動が、東北と国家の和解のルートになったりする姿。兵員の徴集や戦時公債募集をめぐる貢献をもとに、査定が行われた話。「日本」に組み込まれきっていない沖縄の姿などなど。「大日本帝国」がまだ形成途上だった姿が紹介される。


 第六章は終戦処理。ギリギリの交渉であった講和条約。さらに、三国干渉。ロシアの介入に対し、日本は不信感を強め、日露戦争への伏線になっていく。また、下関条約で割譲を受けた台湾では、中国系移民を中心とした抵抗運動と泥沼の戦争に陥る。後々まで、「平定」できていなかった状況。最終的には20世紀にはいるまで抵抗が続く。また、清を追い出した朝鮮半島でも、日本に対する反発が強く、紆余曲折のなかで親日的勢力は一掃され、むしろロシアの直接介入を招くことになる。結局、日清戦争の成果って、外交的失敗によって、ほとんど烏有に帰しているのが印象的。2万人近い犠牲を払って、それなのか。


 最後のまとめでは、戦争の継続期間を問題にしている。このあたり、他の戦争でもそうだが、明確な数字って出てこないんじゃなかろうか。当時においても、開戦時期について混乱が見られたようだし。終わりは法的な戦時体制の解除でいいと思うが。
 あとは、日清戦争の決算。戦時外交の下手糞さが印象的。あとは、戦後、民力休養を主張していた民党が、むしろ対外強硬派・軍事拡張路線に転じていく姿。むしろ、民主主義化したほうが、強硬主義的になるというのはよくある光景だな。日清戦争がなければ、日本は別の姿を取った可能性が高いとも言えそう。
 末尾の文献や史料紹介が有益。図書館で借りて読んだが、買ってもいいかな。軍の公刊戦記は、一応近デジにあるんだけど、あれ、読みにくいんだよな。紙の本で欲しい。


 以下、メモ:

 こうしたなかで日本、なかでも函館と長崎は、ロシアの極東経営に不可欠な存在となった。特に長崎はロシア船の寄港地かつ補給地であるとともに、長崎を経由して食糧・日用品・日本産石炭がウラジオストクや旅順(一八九八年以降)に供給されたからである。長崎からは物資だけでなく、多数のからゆきさん(九州、特に島原・天草地方出身の売春婦)がウラジオストクとシベリアに向った。冬季の四ヵ月間は長崎湾奥の稲佐沖が、ウラジオストクを母港とするロシア太平洋小艦隊の停泊地となり、稲佐は水兵のための遊郭が存在し、ロシア将校の日本人妻が居住する、「ロシア村」の様相を呈した。
 ロシアとの関係が深まるとともにロシア系住民の数が増え、一九〇〇年頃の調査では長崎在住の外国人のんかあで、ロシア系住民(多数のユダヤ人を含んでいた)は中国人に次ぐ数を誇っている。このようにロシアの極東経営は日本抜きでは成立せず、その結果としてロシアの政策は対日協調を機軸としていた。p.20

 19世紀末の日ロ関係。

 戦闘経過を振り返ると、九月一五日の戦闘は日本軍に有利であったとは言えない。第五師団主力と混成旅団の攻撃は両方ともに失敗して一時撤退していた。北側から攻撃した朔寧支隊と元山支隊は城外の堡塁と外郭の牡丹台を占領したものの、乙密台の陣地に阻まれて内郭を占領できなかった。一六日以降も、弾薬と食糧を豊富に持っていた清軍が抵抗を続ければ、食糧補給に問題のあった日本軍が危機に陥った可能性もある。士気の低い清軍が敗走して自滅したため、日本軍は勝利を拾ったのだ。p.92

 実際、2900石もの米が城内に残されていたというしな。まあ、清軍がそういう日本軍の食糧補給の問題点を察知できなかったという偵察能力の低さはあるが。