白石隆『海の帝国:アジアをどう考えるか』

海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)

海の帝国―アジアをどう考えるか (中公新書)

 うーむ、読むのに時間がかかった。読んでる途中で、四冊ほど割り込まれてしまって、新書に一週間近くかかった勘定に。基本的には、東南アジアという枠組みがどのように形成されたのか、ラッフルズによる提言による海峡植民地の形成、「文明化」による上からの近代国家形成、さらに冷戦によるアメリカの戦略によって形成された東南アジアの枠組みまで。近世以降、かなり外在的に形成されてきた地域の歴史を描く。
 東南アジア地域の特性として、地域の人口が少なく、特定の港市や都市に人口が集中すること。「国家」が人的な結合によって形成される。農業生産を基盤にする内陸の「陸のまんだら」と交易を核とする港市国家による「海のまんだら」の交互の拡大、さらに中国の王朝による交易の管理能力の盛衰による地域的な歴史的なリズムが存在した。しかし、16世紀のヨーロッパ人の進出は、そのリズムを破壊した。もともとの秩序が混乱した隙間に、「ブギス人の世紀」が現出する。しかし、東南アジア島嶼部を牛耳った彼らも、ヨーロッパ人勢力を駆逐する能力はなかった。
 19世紀前半に、このような状況にあった東南アジアに、イギリスがラッフルズの献策を元に、「非公式帝国」を建設する。マレー半島シンガポール、マラッカ、ペナンといった拠点を中心に、「海峡植民地」を建設する。ラッフルズの構想では、ブギス人と同盟し、南の方に勢力を伸ばす方針だったが、外交交渉によってジャワがオランダに変換された結果、方向を変え、中国方面に影響力を伸ばし、また中国人と同盟することによって、国家が維持されることになる。シンガポールは自由港ということで、関税収入がなく、マレー半島の錫鉱山やプランテーションを中国人に開発させ、中国人労働者に売りつけるアヘンやアルコールなどの請負からの収入が大半を占めた。また、このような中国人金融業者・鉱山農場主・労働者という組み合わせは、周辺地域にも拡散し、ネットワークを拡大した。また、このようなイギリスの非公式帝国に対し、オランダ植民地はジャワ人貴族を官僚として取り込み、ヨーロッパ向けに砂糖、インディゴ、タバコなどの農作物を生産させることで維持を図った。一方で、弱体なフィリピンは、自由貿易ということで、イギリス非公式帝国と中国人ネットワークに植民地を解放し、中国人はメスティーソとして政治構造に溶け込んでいくことになる。
 この時代、植民地国家では、便宜的に分けられた、「中国人」「マレー人」「ブギス人」「アラブ人」などのカテゴリー別に居住地域が設定され、互いに交わらない「複合社会」を形成した。このような便宜的な区分けが、制度化された結果、逆に人々の認識を変え、マレー人や中国人といったアイデンティティを形成していくことになる。
 19世紀末になると状況が変わってくる。国家が地図と人口調査で土地と人口を把握し、また交通インフラの整備で支配を拡大していく。また、国家の成長の過程で、白人社会が拡大し、人々の「内面」が問題になってくる。現地の人々の内面まで可視化しようとするようになる。ヨーロッパ式の教育が持ち込まれることによって、人々は「わたし」を手にいれ、今現在の社会的存在と異なる「わたし」を想像することができるようになった。結果として、「近代的政治」が東南アジアに出現し、外から持ち込まれた国家を「われわれ」のものと考えるナショナリズムが誕生した。このような動きに対し、徹底的に独立運動を弾圧する警察国家化で、ヨーロッパ人は応じた。しかし、それは「文明化」の破産であり、第二次世界大戦の日本軍の占領で、あっという間に崩壊していった。
 戦後、東アジアから東南アジアにかけての地域は、アメリカを核とした地域秩序に再編成される。ソ連・中国の封じ込めと日本を米国の脅威にならないようにする二つの課題の解決から、進む。日本を第二のセンターとした地域秩序の形成。個別の軍事同盟と日本の急所を押さえることで、それは果たされた。アメリカ、日本、東南アジア諸国三角貿易。経済成長と富の分配の期待を梃子とした、上からの国民国家建設が行われる。
 植民地時代からの社会の状況によって、「上からの国民国家建設」の姿は異なる。国家が私的利害に左右されないだけの力を持つ「権力集中」、さらに発展の過程で形成される中産階級による民主主義の動きを受け入れる「権力拡大」の二つの流れの関係が重要となる。タイでは、王家の主導で中央集権的な官僚制国家が建設される。民主化とクーデタの繰り返しが特徴になる。一方で、権力の集中から、90年代の経済危機のなかでも、国家の存立を脅かす政治的混乱は発生しなかった。インドネシアでは、先に国民と政党が存在したが、スハルト体制はそれを解体し、官僚制国家を建設することになる。しかし、スハルトの国家私物化とともに、この官僚制国家はゆるみ始め、アジア経済危機で、深刻な混乱を発生させることになる。フィリピンでは、同質的な大土地所有者層がエリート階級をなした。マルコスは、「中央からの革命」で権力の集中をなそうと試みたが、私的なボス政治から脱却できず、早々に革命を経験することになった。このように三者のそれぞれの経緯をまとめる。
 最後は、まとめと展望。ヘゲモニーは当面アメリカが確保する。東南アジアの国家の分解の可能性、中国のヘゲモニーへの挑戦の可能性。本書は、およそ15年前にかかれたものだが、現在の状況からすると興味深いな。10年ほどで、構図が逆転するというか。安定を誇ったタイが、選挙すれば負ける保守層と地方に基盤を持つタクシン派の政党との対立でデッドロック状態に陥っている。一方で、解体の危機にあるといわれたインドネシアが地方ボスに権力を分散することで、政治的安定と経済発展を可能にしている。本書ではインドネシアの解体を懸念しているが、立場が逆転しているのが興味深い。また、中国が「開かれた政治経済システム」を形成するかどうかと述べているが、現在からするとかなり悲観的な状況だな。今後どう動くのやら。


 以下、メモ:

 フォードは「私は自動車の製造業者というよりもむしろ人間の製造業者である」と語ったというが、まさにそのことばの通り、かれはその労働者管理の方式において、労働者を工場、家庭生活、近隣生活、その総体で捉え、かれらを市民として教育することによって理想的アメリカ人を作り出そうと試みた。フォードの工場を支配した原則のひとつは「部品の交換性」だった。この原則が自動車の部品ばかりか、労働者にも適用された。「エスニシティや伝統的な慣習に由来する労働者個々のパーソナルな規定性を完全に払拭した世界、人が取り替え可能な機械の部品のように作動する世界の実現」が理想となった。つまり、別の言い方をすれば、フォードのプロジェクトとは、「中産階級的な理性とセルフ・コントロールとを持し、機械化に対応可能な合理性を有し、産業社会全体への貢献を自己のしめる持ち場において着実に果たしうる労働者という抽象的で新しい人間のモデル」、このモデルに遵って新しい人間を創出しようという人間改造計画だった。この計画の画期的な点は、それが十九世紀に構想されたユートピア的コミュニティ、「企業タウン」などのように労働者を空間的に隔離するのではなく、生産活動と消費生活の両方の現場において一定のインセンティブを与え、かれらを内面から「改造」すること、そしてそれによって「人や集団を歴史の呪縛から解放」することにあった。p.125

 うーむ、キモイ。
 その手段が、結局『覇者の驕り』見られるようなむき出しの暴力だったわけで。つーか、「歴史の呪縛」からの解放とか、無理だろう。
 このあたりの記述は、古矢洵「アメリカニズム、その歴史的起源と展開」東京大学社会科学研究所編『20世紀システム(1)構想と形成』東京大学出版会、1998から採られているのかな。

 アメリカの開発主義のプロジェクトのもうひとつの要素、それは教育によって自分たちと言語を共有し、自分たちと同じようにものを考える人々を養成する、そしてそういった人々を国家機構のなかに埋め込むアメリカ化のプロジェクトだった。これについてはかつて論じたことがある。したがって、ここでは一例を挙げるだけにする。
 たとえば、インドネシアにおいてエコノミストの養成は一九五〇年代はじめ、フォード財団の助成でインドネシア大学経済学部が整備されるところからはじまった。米国の大学から経済学の先生が客員教授として派遣され、それまでのオランダ人の先生、オランダ語の教科書を使ったオランダ語の講義、オランダの大学における経済学教育のカリキュラムに代わって、アメリカ人の先生、英語の教科書を使った英語の講義、米国の大学における経済学教育のカリキュラムが導入された。またその卒業生をフォード財団の奨学金で米国に派遣し、大学院レベルの教育を受けさせた。これがはじまりだった。そしてこれによって一九六〇年代はじめまでにインドネシア大学経済学部はアメリカ人エコノミストと「言語を共有する」インドネシアエコノミストの拠点となった。p.146-7

 大学教育における「実学優先」「文系軽視」の改革は、日本で独自の概念を構成する力を奪うという点で危険なんだよな。概念操作のパワーを軽視しているというか、もうアメリカに飲み込まれているというか。まあ、日本において、ヨーロッパの啓蒙思想アメリカの経済学のような普遍性のある概念が生れていないという限界はあるんだけどね。
 あと、大学教育の英語化、「国際化」は、完全に負け組路線だよな。「知の自発的植民地化」というか。
白石隆アメリカはなぜ強いのか、ヘゲモニーと知的協力」『中央公論』1997年7月号

 中国では帝国は常に農民支配の上に築かれた。これは中華人民共和国についても同様である。歴代王朝においては郷紳の農民支配が帝国の基礎をなし、中華人民共和国においては共産党の農民支配がその基礎をなす。それは別の言い方をすれば、中国において国家が資本主義国家として編成されたことは一度もなく、商業の繁栄、市場経済の発展は常に農本主義国家の基礎を脅かしたということである。これは中国の歴史が示す通りである。過去五、六〇〇年、日本列島、朝鮮半島から浙江、福建、広東を経て東南アジアに至る「海のアジア」の領域では商業の時代が何度かあった。中国はそのたびに不安定化した。十五世紀から十七世紀にかけての商業の時代には倭寇が跳梁して明が衰亡し、十九世紀から二十世紀の帝国主義の時代には中国は「半封建、半植民地」の有様となった。これは偶然ではない。商業の時代には、富が権力を生む。それは土地と農民の支配にもとづく権力とは異質の権力である。商人と海賊が明の支配を脅かし、清末、南洋華僑が孫文の革命運動を支援したのはそのためである。そしていまわれわれは二十世紀末にはじまった新たな「商業の時代」にある。では中国はこの「商業の時代」にあって、市場経済に適合的な資本主義国家、つまり市場経済のダイナミズムを国力に転換できるような開かれた政治経済システムを創出できるだろうか。相当に疑問である。p.196-7

 うーん、なんか微妙感が。そもそも、日本だって「市場経済のダイナミズムを国力に転換できるような」体制かどうか疑問だし。

 これはよく知られたことである。しかし、ここで重要なのはその先である。東南アジアということばが作られ、米国の対アジア戦略の概念装置となってみると、その東南アジアについて専門家のいないことも明らかになった。あたりまえのことである。いままで地域とも見なされていなかったところにその専門家がいるわけがない。そこで東南アジア研究の必要性が認められ、コーネル大学、イェール大学などに東南アジアプログラムが設立され、政府、民間財団から研究教育助成が行われた。東南アジアの「専門家」が教師として雇用され、インドネシア語タイ語などのコースが設けられ、潤沢な奨学金に支えられて東南アジア研究者の養成がはじまった。東南アジアの言語を自由にあやつり、東南アジアでフィールド調査を行ない、東南アジア研究で博士号を取得した東南アジア専門家が登場するようになった。一九五〇年代後半から一九六〇年代半ば頃のことである。p.201-2

 このあたりのアメリカの「地域研究」のあり方も興味深いな。泥縄とはいえ、そこからの動きが。地域研究のパワーを理解していると。一方で、こういうコースを学部で卒業した人々はどこに就職したのだろうか。
 冷戦終了後に、ソ連・東欧の講座がまるごとリストラされたってのもすごいな。なんつーか、気が早すぎというか。結局、20年後に、ロシアが復活してくると、人材不足に悩むことになる。