南極観測隊のしごと―観測隊員の選考から暮らしまで (極地研ライブラリー)
- 作者: 国立極地研究所南極観測センター
- 出版社/メーカー: 成山堂書店
- 発売日: 2014/03/27
- メディア: 単行本
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ちょっとばかりお堅い本だけど、あまり語られない部分だけに、興味深い。物質的というか、役所的な側面としての南極観測隊の概観が得られる書物。
多くの官僚組織が関わる南極観測は、折衝と計画の塊。まあ、計画を立てないと、何が必要かもわからないのだから、当然か。このあたりは、体験記の類ではあまり語られないなあ。さらに報告書を作成して、そこから評価をうけて、改善するプロセスがある。隊員の選抜では、やはり、健康状態が重視される、と。
第4章は、輸送。砕氷船が一月がかりで航海する。人員はオーストラリアから。しかし、昭和基地があるリュツォ・ホルム湾は、海氷の状況が、他の基地と比べても厳しい地域で、しらせの砕氷能力をもってしても、着岸できないことがある。逆に、一気に割れて、進入路が開くこともあり、自然に翻弄される場所である。また、DROMLANと呼ばれる国際協同航空輸送ネットワークが組織され、人員だけなら、数日で南極大陸に入ることができるようになっているそうだ。あとは、燃料が輸送量の半分を占めるとか。
第5章は施設のお話。風速10メートルの風が吹き続ける沿岸地域が、それでも、南極大陸中では、比較的温暖で条件の良い場所だと。寒冷な南極で活動を続けるには、やはり、燃料が大事。ジェット燃料をメインの燃料として、ディーゼル発電機を回している。また、その廃熱を暖房や造水に利用している。再生可能エネルギーなどの、自前で確保できるエネルギー開発の試み。あとは、建物に雪が吹き溜まるのが、悩みの種とか。
第6章は、南極の衣食住に医療。特別製の装備が必要なのだな。「夏」といっても、充分寒い土地。あと、登山用の装備が、必ずしも、南極での活動に向いているわけではないとか。越冬生活では、食事が士気を維持するために重要。そのために、メニューは工夫される。フリーズドライ食品が宇宙食になったり。あと、生野菜が貴重で、次の観測船の第一便が運んできたキャベツの千切りが大盛りになる。水耕栽培で、ある程度、カバーできるようになってきたなどなど。医療は、医者が1-2人ついていくし、昭和基地の設備もかなり充実しているが、検査技師や看護師がいないから、能力は限られる。特に、歯科は、厳しいとか。環境保全などなど。
第7章は、南極大陸で直面する危険とその対策。ブリザードで視界を失って遭難する。火災で重要資材を失うのが一番怖い。25次隊では、作業工作棟が全焼する火災が発生している。あるいは、クレバスに落ちるなどのフィールドでの事故など。危険予知が大事。また、教材として事故事例集が作成され、国際的なデータベースの作成も行われているとか。
第8章は国際協力。南極の開発を制限する南極条約体制の下、様々な国際機関で協議・連携が行われる。あるいは、国際協力の実例として、ドイツとの共同地磁気観測、ベルギーとの共同隕石探査、オーロラ・オーストラリスによる輸送支援などが紹介される。
最後は、将来のお話。観測技術の進歩による新たな観測分野の出現。水蒸気が少ないため、テラヘルツ波による電波観測に有利といった南極天文学、バイオロギングによる生物の活動の解析、南極から回収された隕石の研究がはやぶさ2にスピンオフする。あるいは、南極へのアクセスの多様化。航空機によるアクセスは一般化している。また、しらせを機動的に運用する必要性の指摘。廃棄物問題など、環境に配慮した設備の必要性など。
白瀬隊は、ロス棚氷(海に張り出した大陸氷床)に上陸、一九一二(明治四五)年一月二八日には南緯80度05分に到達した。ちなみにこの約半年後の七月三〇日、元号は大正と変わる。白瀬隊は、この南極探検で、大隈湾、開南湾、大和雪原などの地名を残した。これにより、日本は南極に領有権をもつことになったのである。
しかし、残念ながらこのことは長く忘れられていた。一九五一年のことだ。サンフランシスコ平和条約締結の際、日本は南極における権益の放棄を求められたのだが、日本の代表団は南極の領有権のことを知らなかったという。それほど忘れられていたのである。p.2-3
へえ。かつては、日本も南極の領有権を持っていたのか。