- 作者: 田中淳夫
- 出版社/メーカー: 築地書館
- 発売日: 2018/07/02
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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さまざまな、奈良鹿に関わる団体のルポが興味深い。人間と鹿の緩衝役。奈良の鹿愛護会の仕事は大変だな。事故や被害があると、出向いて対処する。県の部局とか、相談室やサポーターズクラブ。「野生」といいながら、かなり人間が介入している側面もある。妊娠したメスの保護とか。とはいえ、その介入は、人間との衝突を避ける工夫である、と。小鹿を抱えた神経質になった母鹿が人間を襲ったり、あるいは、気の荒いオス鹿が人間に危害を与えないようにする角切りとか。
そういえば、立派な角がオスの力を示す指標となっている中で、人間が人為的に角を落としてしまうことが、繁殖行動にどのような影響を与えるかも気になる。
奈良の鹿をめぐる歴史も興味深い。春日大社や興福寺が創建されて、その創建説話で重要な位置を占めた鹿が「神鹿」とされるようになる。中世には、興福寺の力もあって、鹿を殺した人間は、死刑にされていたという。このあたり、検断権とか、「墓所の法理」とか、そのあたりとつながるのだろう。このような、鹿の地位は、近世以降、徐々に低下していく。近世には、鹿を殺しても、徐々に罪が軽くなっていく。近代に入ると、一気に「神鹿」から、「迷信打破」ということで、逆転していく。奈良県知事、四条隆平は、大規模な鹿狩りを決行する。1875年には、鹿を囲いに追い込んで、急激に数が減少し、38頭まで減少。その後、保護されるようになるが、それが第二次世界大戦で暗転。戦後は78頭まで減少する。
少なくとも、戦後は孤立した個体群になっていたということなので、外部から遺伝子の補充なしに78頭から現在の約1500頭に増えたとすると、遺伝的多様性はずいぶん減っていそうだな。そのあたりのボトルネックが、大量死を引き起こしそうなのも怖い。
戦後は、獣害と鹿の所有権をめぐる裁判があったり、増えた鹿が春日山原始林の植物を食べつくしかけていたり、個体数が増えすぎて少子高齢化が進んでいる。というか、一時飼育していたり、奈良の鹿って、野生なのか、飼育なのか、よく分からないな。「半野生」という言い方がぴったりなのかな。
鹿と人間の距離感をどう構築するかが問題である、と。
獣害の現場のレポートも興味深い。
野生動物の増加には、奥山における食料資源の増加が大きいと。よく手入れされた人工林は、間伐で光が入り、むしろ下草が繁茂する。農地では、規格外品などの農業廃棄物がそのまま放置され、それが動物の餌になる。また、道路の法面に植えられた草も、牧草などが多く、栄養がたっぷり。むしろ、人間が、動物の餌を準備してやっている。
また、猟友会は、あまり、害獣駆除に向いていないという指摘も。人里に住み着いて、農作物の味を覚えた個体が問題。しかし、そういうのは、駆除しにくい、と。結局、餌となるものを農地に残さない、柵などで防護する、「予防」と「防護」が大事と。なんか、シシ垣を作っていた江戸時代みたいになって来たな。
あとは、ジビエとしての利用の問題も。ニホンジカの食肉販売を行う丹波姫もみじという会社を取材しているが、野生の動物の場合、個体や捕獲者の腕や処理で、品質にバラツキがあり、商品になるのは少ない。特に有害駆除の場合、食べられるように気を使うインセンティブが低く、産業廃棄物としての処理費がかさむ。安定して利用したいなら、むしろ飼育の方が良いと。そういえば、『猪変』でも、海外から飼育した猪の肉を輸入する動きが紹介されていたな。
それでは、獣害対策にはならない。食べて、駆除も難しい、と。
宮島、大台ケ原、金華山、阿久根大島といった、人に慣れた鹿が存在する土地。あるいは、北海道のタンチョウなど。給餌が、農地や住宅で食害を引き起こし、排除される事例がいくつもある。大台ケ原のアニマル・ウェルフェアへの配慮も興味深い。確かに、残酷に殺すのは問題だが、あまり気を使いすぎるのもどうなのかねえ。