熊本県立美術館ミュージアムセミナー「仏像の銘文が教えてくれるもの」

 あさぎり町荒茂の勝福寺跡毘沙門堂の1156年製の毘沙門天像に残された三つの銘文を題材に、他には史料が残っていない地域の状況や信仰上の位置づけなど、仏像銘文の情報的価値を明らかにする。


 荒茂毘沙門堂には、複数の毘沙門天像をはじめ、多数の仏像が集められている。問題の1156年製の毘沙門天像は、最大のもので、高さが142センチの大きな像。そもそも、三つも銘文が残っている時点で、相当に重要視されたものであったようだ。
 もともとは、北の山の頂上に安置されていたが、明治22年ごろに、現在の荒茂毘沙門堂に移されたという。それまで、球磨郡全体を睥睨していた。


 一つ目は、造像時の墨書。1156年のもの。

奉造立毘沙門天王像一体高七尺
右為当郷領主藤原家永并藤原氏御息災
延命増長福寿也勧進僧源与為二世聖
成就也仏師僧経助為現当悉地成就也


為多治助則并藤原氏
一家平安也


久寿三年四月二日奉安置

 そもそも、地域の史料がほとんど、残存がなく、当時の墨蹟であるという時点で貴重であるそうだ。この地域の古来からの領主は、ほとんどが藤原氏だが、球磨郡図田帖という、ほとんど唯一の史料に、須恵家基という人物がいて、「家」という字が通字であると考えられるため、今まで予測に過ぎなかった須恵氏による造像が確定した。
 須恵、久米、平河、人吉といった、相良氏入部前からの在地領主は、中世には、相良氏に押されて、跡を絶ってしまっているので、地域の権力関係がわかる情報は、貴重であるという。


 多治助則以下の文章は、あとから付加されたように見えるが、この人物もよくわからない、と。しかし、多治姓の人物は、大宰府の役人に多く、大宰府の役人で球磨郡にかかわる人間が、あとから、加えるように圧力を加えたのでないかという話が興味深い。


 二番目の銘文は、左太もも後部にはめ込まれた木材に書かれていた文。1341年のもの。
 ある女性が、像を切り裂いて、昔から入れられていた銭貨数十貫文を盗んだが、踊りながら堂を出たため露見し、罪科に処せられた。その修理の経緯を記した銘文。
 造立後、185年経つうちに、領主須恵氏の守護神から、背中に空いた穴に銭を投げ込むと富を得られる財福神へと、信仰上の位置づけが変化していたことが分かる。
 で、この時点で、須恵氏は力を失っていたことも分かる。そもそも、力を持っていたら、背中の穴からお金を投げ込むなんてことを許さないだろう。
 また、この修理銘文そのものが、毘沙門天像の霊験譚となっている。


 最後は、1465年の修理銘文。
 相良長続の代官が修理したという記載がある。文安の内訌を経て、1440年代に、「分家」とされる永富家出身の長続が、本家に成り代わる。1400年代前半の文書が残っていないことから、長続の継承に後ろ暗いところがあり、史料の隠滅が行われたのではないかという。
 そして、1465年のこのころには、支配が安定し、権威や正統性の誇示のために仏像の制作や修理が行われる。この、毘沙門天像の修理事業は、その中でも最初で最大のものであると。
 山の上から、球磨盆地全域を睥睨する毘沙門天は、まさに、球磨盆地の支配者の力を明かすものである、と。また、この時期までは、造像年代が1156年と伝承されていたらしい。それが、この年の大修理という結果につながった、と。


 仏像の銘文から、今まで文献がなく、よくわからなかった球磨の中世史の姿が少しだけでも、垣間見えるようになるというお話。