柳田快明『中世の阿蘇社と阿蘇氏:謎多き大宮司一族』

中世の阿蘇社と阿蘇氏 (戎光祥選書ソレイユ4)

中世の阿蘇社と阿蘇氏 (戎光祥選書ソレイユ4)

 中世の阿蘇宮司の興亡を追った通史。阿蘇谷から離れた南郷谷や矢部を本拠にした大宮司が、「なぜ最高権力者であり続けたのか?」という疑問には結局答えられていないような気がするが、中世阿蘇氏の動きを見渡すにはちょうど良い通史になっている。特に、南北朝期、南朝方で活躍した惟澄視点ではなく、中立を維持し、それによって阿蘇氏の存在感を高めた惟時メインにしているのが興味深い。
 こうしてみると、以外に中世阿蘇氏全体を見回しての知識がなかったなあ、と。いままで、中世阿蘇氏の通史が少なかったので、新たな通史は歓迎。
 というか、そもそも、阿蘇氏の概説本って、他に、一宮町史の阿蘇氏の巻くらいしかないんじゃなかろうか。
 しかしまあ、いつの時代をとっても、阿蘇の豪族、一族、阿蘇社の社家集団、西巌殿寺の衆徒などなど、代替わりごとに諸勢力の分裂抗争が起きかけていたのだな。まあ、どこの武家の家中でも、継続的に内部対立は起きているわけで、人間集団である限りは、そんなものか。


 第一部は、概説と鎌倉時代までの阿蘇氏。
 「阿蘇十二神」の系図が高度に操作されたものであること。中世阿蘇社の祭礼が近世のものとは、かなり違っていた。「卯」のつく祭日は、阿蘇社の創建に関わる記念日らしい。あるいは、仏教的な祭礼が割と多い。阿蘇文書が戦火や自然災害を超えて受け継がれてきたこと。阿蘇社の祭祀の経費を支える基盤として、現在の阿蘇郡からの直接的な貢納の他に、国衙を通じた、肥後国一円への賦課の存在も大きかったこと。そして、阿蘇社領の境界の話など。阿蘇十二神の話とか、本当に難しい。自分で再構成しないと、頭に入らないな。
 「阿蘇山上宮奇瑞記抜書」が興味深い。10年くらいのスパンで活動が盛衰するのだな。これは、現在とあまり変わらない感じ。そして、阿蘇山の火山活動は、現実社会での政治的事件と結びつけられた。結びついていない噴火もあるけどw


 平安時代から鎌倉時代にかけて。中世前半の阿蘇氏って、そもそも、名前もよく分からない人がいるのか。そもそも、阿蘇氏の出自が、阿蘇国造に関連するかも怪しいといったニュアンスを感じるが。
 文書で実在が確認できる最初の大宮司は、惟宣。12世紀半ばの、荘園領主に対する納入報告が初見。つまり、この時点で、阿蘇社と阿蘇宮司が、荘園制の枠組みに組み込まれていたことが明らかに。二点の史料以外、事績が全く伝わらず、さらには次代の大宮司は名前さえ不明。
 その次の惟泰は、菊池氏とともに平家に反抗したが、その後は平氏に従い、源氏勝利の後、大宮司を解任されている。また、南郷谷に本拠を構えたのは、この時代。
 その次の代、惟次から、北条氏との主従関係の元にあった。
 惟景の時代、1270年代に有力社家から、背かない旨の起請文を受け取っているが、つまりはその前の時代には、大宮司の権威が低下していて、有力者に背かれるような状況にあったことが指摘される。
 あるいは、その次の代の惟国とその子惟時の緊張関係。譲り状が存在しない惟時は、どのようにして、大宮司位を確保したのだろうか。そして、惟時の時代に、鎌倉幕府が滅亡して、南北朝の内乱の時期に突入する。




 第二部は、南北朝の内乱。この時代、残存する文書の量が飛躍的に増えるというのが興味深い。室町幕府南朝、双方から、誘引工作が行われた。
 多々良浜の戦いにおける大宮司惟直の戦死と惟時の復活。足利尊氏による坂梨孫熊丸の大宮司擁立と南朝側で奮戦する恵良惟澄。一方で、惟時は、南北双方と適度に交渉や情報提供を行うことで、阿蘇氏の重要性を高めることに成功している。
 肥後の南北朝内乱では、むしろ惟澄の活躍がクローズアップされがちだが、惟時の難しそうな舵取りが印象的。そして、惟澄も、一族や諸勢力を糾合して、南朝側で奮戦したにもかかわらず、思うような恩賞を得られず、最後は北朝系の惟村に家督を譲っている。南朝の無力さが印象的だな。しかし、惟澄の元に集った人々は、どういう意図で激しい戦いに身を投じたのか。
 後継者を失った惟時の死後、大宮司位は、惟澄の家系に移るが、南朝系の惟武と北朝系の惟村の兄弟対決に続く、阿蘇氏一族の内訌。北朝系の惟村は、阿蘇地域を掌握できていなくて、南朝西征府を背景にした惟武が、むしろ、祭祀を主催する立場だった。
 このような状況は、鎮西探題に任命された今川了俊による九州制圧の進展に伴って、阿蘇氏の分断工作を。菊池氏と距離が近い南朝系の惟政にも、秋波を送るようになる。


 惟村系と惟武系に分かれた大宮司家は、15世紀に入っても、分裂抗争を続ける。
 鎮西探題・菊池氏と連携する惟武系、矢部に逼塞しつつも、大友氏と連携し、将軍からの大宮司位の安堵を得た惟村系。徐々に、惟村系が有利になっていく。




 第三部は、戦国時代の阿蘇氏。両大宮司家の統一から、改めての分裂、そして、島津家の侵攻の前に、徐々に領国が解体していく状況。
 分裂した大宮司家は、惟村系の惟忠が、惟武系の惟歳を養子とすることで、いったん解消される。これによって、惟忠は、阿蘇社の祭祀に積極的に関わることができるようになる。しかし、晩年、実子の惟憲が生まれると、両系の対立は再燃する。最終的に、1485年の馬門原の合戦で、惟憲を支援する相良氏の軍勢が、惟家を支援する菊池氏の軍勢を撃破し、分裂抗争に決着をつける。
 しかし、統一は、時代の惟長の時代には、はやくも破れる。
 嫡流が絶えた菊池氏の後継者に推された惟長は、菊池武経と改名し、菊池氏の家督を継ぐ。しかし、武経=惟長は、菊池氏家臣団の支持を失い、追放され、大宮司を継いだ弟、惟豊から、大宮司位を取り返し、返り咲こうとする。これは、家臣団の支持を受けられず、惟長は薩摩に逃亡。薩摩勢の支援を受けて、惟豊を日向に追い落とすが、今度は日向の甲斐氏の支援を受けた惟豊が矢部を奪還する。この後、惟長とその息子惟前の家系との対立が続く。また、惟豊は、かなりのコストをかけて、位階の昇進運動を行い、それによって、正当な阿蘇氏の棟梁であることを示そうとした。
 そして、事実上の最後が、惟将。
 対立候補である惟前の家系との対立。さらには、大友・龍造寺の肥後進出と、それが一気に退潮する情勢。島津が一気に肥後に進出してくる中、徐々に領国が解体していく。島津氏と阿蘇氏というか、甲斐宗雲の対立要因って、何だったんだろう。惟将、惟種の二代の相次ぐ死去に、阿蘇家中の支柱である甲斐宗雲の死亡。幼い惟光を擁した重臣たちの求心力では如何ともしがたい状況だったのだろうな。最終的には、矢部を没落することになる。
 さらには、梅北の乱で、関与を疑われての惟光自刃で、中世阿蘇氏は完全に滅亡する。惟光の弟惟善が加藤清正によって神職として再び取り立てられ、阿蘇社は中世とはかなり異なる形で復活することになる。




 しかし、阿蘇氏、みんな「惟」の字がつくから、本当に、区別がつきにくいんだよなあ。
 あとは、南北朝期、尊氏派、直義派、西征府どこも敵にまわさなかった、惟時さんの芸術的な立ち回りが印象的。家中の不満も大きかっただろうに。娘婿の惟澄に対しては、割と困ってたんじゃないかな。

 惟時「娘婿がヒャッハーしすぎて困ってます」

みたいな具合に。
 というか、南朝阿蘇勢力の代表、惟澄さんもなかなかすごいよなあ。一貫して、最前線の鉄火場にいて、何度も負傷しているのに、30年間、南北朝のメイン期間を生き抜いているのだから。