肥後の里山ギャラリー「島原大変肥後迷惑:『自然災害伝承碑」までの道のり」

 上天草市天草市苓北町ジョイント企画による1792年雲仙噴火とそれにともなう山体崩壊津波に関する企画展。企画元の天草や島原の史料がメインになっていて、新鮮。
 メモ帳を忘れたので、いろいろとメモできず。もう一度行くつもり。


 藤田家文書が興味深い。導入として、江戸時代の天草の文書が展示されているが、庄屋の日常的な業務が垣間見られる。
 流刑地として、大阪などから流人が送られてくる。その関連の文書が二点。一方は流人が脱走した手配書、もう一つは流人が関わった経済トラブル。他所の商人から資金を借りて商品を購入。それを現地の商人に預けて委託販売を行う。そういう活動をやっていたっぽいことが分かる。で、その商品らしき荷物が何らかの事情で亡失。預かっていた人間が賠償して、出資者と流人の出資金の精算は自分たちで交渉することにした解決書。土地は持てないだろうし、天草で小作というのも難しそうだしな。
 あとは、八代から石灰焼の出稼ぎに来た人の身元引き受けの証文とか。
 苗字帯刀をめぐる願書とそれを許可する申渡しの書類とか。密輸とか外国人入国の対応が課題であったり、離島で監視が行き届かないから、特権を渡して現地有力者を懐柔する必要があったわけね。


 眉山崩壊津波に関しては、肥前島原松平文庫所蔵の史料を展示。幕府に被害状況を説明し、援助を引き出すための絵図が作成。さらに、幕府側から描き直しを要求されているというのが。島原城下町は、西半分が破壊されたみたい。
 一月後に藩主が心労で死亡か…
 囚人を一時解放して、流失した寺の跡地に穴を掘って遺体を埋めたというが、何寺かメモできなかったので忘れた。地図上では、埋葬地がどうなったのか不明だが…


 天草から熊本にかけては、個人蔵ないし崇城大学図書館蔵の史料がメイン。真っ正面の熊本平野は、干拓地の平野部の浸水面積が大きい。あとは、金峰山宇土方面の谷の被害など。
 天草も、北岸で相当な規模の被害がでている。集落が壊滅状態といった感じか。地図と見比べないといけないなあ。
 そして、村からの公費をだしての供養が、会計関係の書類に残る。かなり時間がたったあとも、村の行事として供養が維持される。


 展示室の半分程度は、津波犠牲者の供養塔の拓本が展示される。天草のものは市が所蔵。熊本藩領のものは個人蔵がメイン。
 熊本平野近辺はいくつか、実際に行ったことがあるけど、天草も意外と多いのだなあ。


 扇崎仙人塚供養塔拓本。玉名郡で2200人余の犠牲者か。



 古荘常陸介惟貞墓碑拓本。長洲町上沖洲の名石神社の社司の墓碑。島原大変津波の際に巻き込まれて死去した人。上沖洲は小さな砂丘程度の地形のようだから、ひとたまりもなさそうな。ご神体も流失したが、お告げがあって掘ってみると、大金と一緒に出てきたとか。つまり、それなりの津波堆積物があったということだよな。実際に掘って検証してみたら、いろいろと情報がありそうだが。



 津波供養塔拓本。熊本市河内町船津の厳島神社裏に残る供養塔。宝篋印塔なのかな。肥前の石工に注文したものだそうで。



 津波供養碑拓本。これも河内町船津に所在。教訓碑で、欲を掻かずに急いで逃げましょうとか書いてあるらしい。



 供養塔拓本「百回忌供養塔」。天草市五和町二江に所在。100回忌にあたる明治23年に建てられた碑。伝承が続けられていると。近代に入ってからのもののためか、字が読みやすい。