10周年だし、少し語ってみましょうか

もう10年たつのですね。月日がたつのは早い。
当時は京都の大学に在籍し、私は京都に住んでいたので、神戸のような強い揺れは体験していないが、それでも眠りを破られる程の揺れであった。
あの日は深夜番組(冒険野郎マクガイバー)を見て、3時半頃眠りについた。一眠りしたかしないうちに、ふっと眠りを破られた。なんで目が覚めたかいぶかしんでいるうちに、ガタガタと本震がきた。京都は震度4、私が住んでいた右京区の北の端では震度3程度だったかもしれない。それでもかつて経験したことのない揺れに身を硬くしているしかなかった(ハイベッドだったので動きようもなかった)。棚の上に置いていた調味料のペットボトルが落ちたが、被害はそれだけで済んだ。
飛び起きると、テレビを付けた。京都、大阪の被害の状況が報告され、神戸のNHKのカメラが揺れに翻弄される局員の姿を繰り返し放送していた。しかし、その時点ではそれほど大きな被害は報告されず、うかつにもあまり大きな被害が出なかったと安堵してしまった。
6時ごろに、大阪に住む従兄弟から状況確認の電話が入り、少ししゃべる。彼は地震の直前に、高速道路を通ってスキーから帰ってきたのだった。その後、私は状況が落ち着いたと判断し、8時前には眠った。
次に目が覚めたのは、10時か11時ごろ。実家の家族が心配しているかもしれないと思い、起きてすぐに電話を入れた。すると母が、神戸がすごいことになっている、高速道路が倒れていると興奮した口調で言う。慌ててテレビを付けると、阪神高速の高架が倒壊している映像が目に飛び込んできた。熊本側からは電話がかからなかったという。この時になって初めて何が起きていたかを知った。
一言、二言話して、電話を切り、テレビにしばしくぎ付けになった。その後、学校へ出かけ、帰途スーパーでミネラルウォーターを買った。熊本の水道水は地下水から取水していて生水でもかなり美味しいが、京都では生水を飲む気になれず、直接飲む分はミネラルウォーターを飲んでいた。非常備蓄のための需要によって品薄になるだろうと考え、なくなる前に確保しておこうと思ったのである。事実、その後しばらくの間、ミネラルウォーターは品薄状態が続き、非常に不便だった。品薄状態は一月程度続いただろうか。
2月には、学校の掲示板の張り紙を見て、ボランティアとして長田区の児童福祉施設へ何度か行った。給水活動や瓦礫の片付けに従事した。水道の漏水から裏のがけが崩れたことが印象に残っている。電気は届いていたが、水道は止まっていたように記憶している。炊事やトイレなどに非常な不便をかこった。また、被災地の内部にいると、目の前以外の情報が入ってこず、外部との落差の大きさを認識させられた。
また、被害状況もテレビで見た印象とかなり違っていた。長田区の火災現場でも一面焼け野原というよりは、狭く感じた。確かに焼失面積は広大だったが、それでも数百メートル先には無事な建物も見え、テレビの視界の狭さを感じた。住宅の崩壊も、まとまってというよりは、満遍なく散らばっており、それが逆に被害の印象を強くした。交通の不便さも想像を絶するものであった。
私の地震体験はこんなものでしょうか。その春の帰省には、新幹線が使えず山陰側を特急と普通列車を乗り継いで帰った。また、京都では連日、一日中地震関係のニュースが放送されていたのに、熊本ではそれがなくなっていたのもなんというかショックであった。地域の差異の大きさを強く感じさせられる事例だった。