W・ザックス『自動車への愛:二十世紀の願望の歴史』

自動車への愛―二十世紀の願望の歴史

自動車への愛―二十世紀の願望の歴史

 非常に面白かった。この手の文化史の書物では、どこまで信用できるか図りかねるところがあるのだが。
 自動車に対してどのような願望が込められてきたのか。それがモータリゼーションの発展にどのように影響したのかを追及した本。著者は、反モータリゼーションエコロジーの立場のようだ。その立場が論旨に影響しているようだ。
 雑誌・新聞や文学に扱われる自動車を素材にしている。いろいろと昔の雑誌や新聞の記事が引用されていて、それが面白い。基本的にはドイツ国内のみ。
 第一部はドイツにおけるモータリゼーションの展開。20世紀の頭から70年代あたりまで。初期の自動車に対する反発。自動車の拡大、ナチスと自動車、戦後の急拡大、突き当たりと語られる。個人的には、ごく初期の状況。特に、道路を占有する自動車への反発をめぐるトピックが興味深い。
 第二部は自動車にこめられた願望。自動車によって共同体から解放される自由。進歩とスピード、快適さ、差異化ゲーム、旅行、時間と距離の克服などのテーマ。第三部は、それらの願望が魔力を喪失していく状況について。確かに車より自転車の方が、自由を感じる。しかし、著者の自転車への評価は偏っていると思う。自転車にしても、自動車の欠点を薄めた形で持っている。歩行者に対して危険な機械であることには変わりがない。土地のニュアンスを見られることとスピードのバランスがちょうどいいことは確かであるが。あと、1980年代前にパソコンについて指摘しているのは鋭い。まあ、ここまでネットが広がることは予想外のことだったようだが。


以下、メモ:

 社会の上層をなす一万人の人々は、かくして、自動車を彼らの身分を誇示するための一連の手段の一つに加え入れ、反対に、自動車に施された「芸術」的な意匠は、その所有者に高貴な階級の一員であるというお墨付きを与えてくれたのである。自動車がまずはじめにもたらしたのは可動性の革命ではなく、むしろ支配層たることを誇示する特権的な象徴の革命だった。彼らは貴族の血を引いていないにもかかわらず、車を所有するということによって自らの特権的な身分を誇示することができたのである。旧来の土地貴族が次第に社会的な力を喪失していく一方で、このような上層市民が――とりわけ都市部において――社会的に重要な地位を獲得していったのが、ちょうどこの世紀の転換きだった。このような「成金」たちが新たに勃興しつつある時代の主人として登場するために、自動車はまさに格好の手段を提供したのである。
p.26-28

新階級の勃興と奢侈品としての自動車。ちょっと古いスタイルの歴史解釈だとも思えるが…

 この訳は簡単だ。自動車とはそれ自体で完結したものではないからである。走らせる道がなければ、車には何の意味もない。これは敢えて言うまでもないことではあるが、単に当たり前と片付けるわけにはいかない重大な結果をもたらした事実である。自動車が我々の社会の相貌を変えてしまった原因が、ここにあるからである。電気洗濯機や電気掃除機といった他の機器がその所有者の家の中に留まり、外の世界にはいかなる要求も持ち出さないのに対して、自動車は自由な走行が可能な道路を求め、車を持たない人々も路上で自動車にとって都合のよいようにふるまうことを要求するのである。かくして、自動車とは初めから技術の問題に留まらず、道路の問題でもあり、行動様式の問題でもあり、行動様式の問題でもあった。自動車の歴史を眺めることは、それゆえ、必然的に人間を取り囲む環境の歴史、人間の行動様式の歴史を振り返ることにもなるだろう。
 だが道路を征服しようとする自動車に対しては激しい抗議の波が押しかかった。p.9

 風妨ガラス(ママ)の後ろにふんぞり返った運転者が、彼らの引き起こす迷惑さえも快楽の種にしていたことは、一九〇五年、ルドルフ・ディーゼルが始めて自動車で旅行した際の日記からも窺える。「イタリアを離れる時に、われわれの車が立てた土埃ときたら大したものだった!こんな壮大な土埃を、私はそれ以後再び見たことがない。路上には、粉のような石灰石の土埃が五センチもの厚さで積もっていた。この上をゲオルグは、全速力で車を飛ばした。ピアーヴェの谷間を行く我々の後ろには白い巨大な円錐形の埃の雲が湧き起こり、果てしなく広がっていった。ピアーヴェの谷全体が濃い霧に包まれたようになり、白い雲は谷を昇って山の斜面をなめるほどだった。私たちは道を行く人々を驚かせた。彼らはまるで毒ガスの攻撃でも受けたように顔をしかめた。彼らは埃の雲の中で形を失った世界の中に取り残されて、私たちの視界から消えた。彼方に透けて見える野や森は、厚い埃の層のためにあらゆる色彩を失っていた」。このような思い上がった独りよがりが人々の怒りを掻き立てたのは当然だった。道路の損傷や耕地の被害の経済的負担を負わされることになったのは、結局は農村の住民であったから、この怒りはなおのこと激しかった。この怒りの中には同時に階級的な憎悪が混じっていたこともまた不思議ではなかった。農村部の道路を我が物顔で疾駆し、農夫たちに有り難くない贈り物を残して走り去るのは、成り上がりの都市住民だったからである。p.33

一九一二年にミヒャエル・フライヘア・フォン・ビドル博士なる人物がウィーンで『抗議と覚醒のための呼び声』と題する著書を公刊した。この中で彼は、道路に対する一般大衆の権利を主張してこのように述べている。「大衆がいわゆる<路上での不自由>を強いられるようになったのは、自動車の登場以来のことである。大衆のすべてが、一体いかなる理由で自動車に仕えなければならないのか?……自動車を乗り回すものたちはいったいどこから道路を――彼らが豪語する表現を使えば――「支配」する権利を得ているというのか? 道路とはなんら彼らの所有物ではなく、すべての住民に属するものであるはずなのに、彼らは住民の歩行を妨げ、彼らの私有物に過ぎない車に好都合な行動を取るように住民を指図しいようとしているのだ。行動は自動車によるスピード走行のためにあるのではない。それは都市の環境の一部なのだ……公道から歩行者の影が一掃されればよいとでも言うのだろうか?」
 ピドルは、当時においてすでに自動車の社会的な影響の広がりを鋭く認識することができた極く少数の人々の一人だった。道路や平坦な土地がますます車に占有され、戸外での団欒は追放され、自動車を使わない通行者はますます道路の両端に追いやられる未来を彼は確実に予見していたのである。ピドルは道路を――かつての入相放牧地のように――だれもが利用できる共有の空間と見なしていた。そこでは本来、だれが散歩しようが、遊ぼうが、窓から他人の家を覗き込もうが、車に乗ろうが自由なはずだった。彼にはこのような認識があったからこそ、自動車が勢いを増すにつれて公共の空間が独占され、多様な生活の形態がますます隅に追いやられる危険が増大することがはっきりと見えていたのである。「空間と時間の支配者たち」がスピードを享受する一方で、人々が共有するはずの道路の使用権が制限されるようなことが果たしてあってよいだろうか? 彼は否と答える。「公道とは通行のためだけにあるという考え方は間違っており、正当化することはできない。とりわけ大小の都市の道路や広場は、たとえば鉄道の線路のような単なる交通路では断じてない。それはむしろ都市の機能を可能にする施設全体の一部をなすものであり、都市住民の居住空間に属するものである。道路や広場は建物や家々の環境をなすものであり、市民の個人的な生活や社会的・経済的活動の場としての重要性は建物内部の空間に劣るものではない。さらにそれは、大都市の住民にとって欠くことのできないくつろいだ散歩への欲求を充たしてくれるものでもある……今日のような形での自動車交通が普及すれば、すでに見たように、歩行者、もしくは他の乗り物の通行が妨害を受けて危険に晒され、高い文化にふさわしい住民の生活環境が侵害されることは目に見えている。自動車の普及は、法的にも現実問題としても、自動車を利用しない大多数の住民の公共的空間の使用権とは両立しえない」。p34-35,39

今に続く問題。自動車の出現の初期からこのような問題が存在していたことが興味深い。生活道路に入り込む車の問題、都市論(路地の再評価)と「都市計画」。
シートン俗物記さんの滅する地方 〜自滅する静岡、つぶされる丁字屋〜にもつながる問題か。

 歴史の希望の担い手として自らを任じていたのはとりわけ実業家であり、技術者であり、企業人たちだった。彼らが自らの使命と見なしていた進歩とは、彼らにとってはつぼみが開いて花になるのと同じように自然であり、目的にかなったものだった。彼らにとって歴史――正確に言えば現代史――とは上昇の運動であり、それを象徴するのは天を目指してどこまでも伸びるエッフェル塔だった。より高く、より早く、より遠くへ――これが彼らの合い言葉となったのである。このような光の元で、彼らには自動車が「進歩の理念そのものの具現化(!)」として浮かび上がってくるように思われた。それは「反動主義者」や「俗物」どもの抵抗などは排除して確固たる地位を確立すべきものだった。この期に及んでも自動車の意義を理解しようとしない者は、前世紀の末にすでにポドリィ・ド・ソーニエが言っているように、事実の力によって「幸福」を強いられることになるだろう。彼はいう。「機械によって動く車が一端現れた以上は、例えいかなる迫害を加えたところでそれを抹殺してしまうことはできないだろう。この車は学問的な進歩の論理的な結果であり、我々の時代の要求に適うものだからだ。これを拒もうとすることは、時代に逆らい、人間の脳髄の仕事を退け、永遠の運動を拒むことと同様に愚かなことである。それは、我々に働きかけ、戦いを挑もうとする我々の不機嫌な気分を決して変えることができない自然のすべての力に逆らうことなのだ」。遂に「幸福」は進歩の過程で強制執行されてしまう。物資的な進歩にブレーキをかけようとする者は、精神的な退場を甘受せざるをえないのだ。かくして、社会が所有する工業的な生産施設に対して歴史的な栄誉が与えられるに至る。それは今や、虎視眈々と制覇の機会を窺っている外国に対抗して、国家に陽光燦然たる将来の優位な地位を保証するものなのである。
 自動車を巡る当時の論争において、国際的な競争力を追及して進歩の理念の実現を求める陣営から自動車に批判的な立場に立つ論者に対して加えられた反論の論拠は、三点に要約することができるだろう。(一)技術的な進歩の流れを止めることはいずれにせよ不可能である。(二)もしそうだとすれば、ドイツはその先頭に立たなければならない。(三)それゆえ我々は、自動車と自動車産業をあらゆる国家的な手段を用いて援助しなければならない。これほどまでの国家的な責任意識を前にしては、自動車批判論者の声も小さくならざるをえなかった。彼らは、そもそも自動車は必要なのか、また、自動車の利点はその欠点を補って余りあるものなのかという彼らの問いが、奇妙なほどに力を失ってゆくのを手をつかねて眺めていなければならなかった。自動車という新たな工業製品の使用価値についての論議は、十分尽くされないままに立ち消えとなった。ドイツの路上で繰り広げられるモータリゼーションの意味についての論争の上に、いまや世界市場が長い影を落としていた。p54-6

進歩の暴力性。未だに形骸化した進歩信仰は生き残っている。イノベーションなんて横文字に変身して。
また、自動車に使用価値の問題については、今だからこそ議論を尽くす必要がある。たしかに、使用価値は紛れもなく高く、それの恩恵をうけているが、万能ではないし、どこまでで制限するべきかは、より重要になっているのではないか。機械的に完成度が上昇しているからこそ。

 自動車の一般化が不可避であるとみなされるようになると「交通教育課程」とでも呼ぶべきものが形を整え始めた。運転者は「適性」がなければならない、歩行者は路上で「正しく」ふるまい、「誤った」行動を取ってはならない、馬車の御者及び自転車に乗るものは周囲を「よく注意」しなければならない、等々。新たに求められた交通の原則に照らせば、道路を利用する者のすべてにこのような教育が必要だった。それによってのみ「公道」の秩序は回復し、自動車による危険は最小限に食い止められるだろう。「というのも、自動車事故の多くは、道路を利用する人々が、新たに登場した自動車によって一変した道路事情を顧慮しようとせず、またそれに適応しようともしないことによって引き起こされているからだ」。さらにある医師は論文の中で憤慨を押さえきれぬようにこう書いている。「人々が交通量の多い道路を電車や自動車が全く存在しないかのように横切ったり、親が子供たちをまるで遊園地のように路上で遊ばせている様子はほとんど信じがたいほどだ」。道路を自動車交通に合わせて改造しようとする前に、道路を利用する人々のマナーの改造が重要な課題となった。注意力を養う訓練と路上での自己抑制が万人にとって第二の天性となるべきであり、路上での安全を確保するためには慎重さと反射神経を養うことが不可欠だとされた。「歩道がある所ではできるだけ車道に足を踏み入れず、車も通る道を歩くときはよく注意して左側通行を守ること、また、自動車が走っていない場合でも、路上に長く立ち止まっていないこと、このような習慣をすべての人々に普及させる必要がある……国民の交通教育こそが今早急に求められている」。国民の日常生活の習慣の片隅に自動車に対する敬意を焼き付けることが必要である。p61-2

20世紀初めの自動車の普及率から考えると、とんでもなくずうずうしい物言いだな…

 自動車は、上から社会全体へと浸透していった。まず初めに自動車によるドライブを楽しんだのは、上流階級の人々だった。やがて車は徐々に社会的なヒエラルキーの梯子を下って行き、一九七〇年頃にはついに労働者の家庭の半数以上が、五十年来上流階級が彼らに見せつけてきた楽しみを自分自身で試してみることができるまでになった。簡単なオートバイから始まり、大衆車を経て高級車へと車種が拡大して行ったのではなく、その逆だったことは、このような事情に見合っていた。すなわち、初めに登場したのは豪華な大型車であり、時代が下ると共に、さまざまな中級車や小型車がこれに加わっていったのである。自動車産業の誕生を促したのは、それゆえ、大量消費ではなく奢侈品としての消費だった。三十年代に至るまで、自動車産業が主な顧客としたのは、もっぱら車の美しさと性能だけに関心を持ち、価格などは眼中にないような階層の人々だったのである。便利だから、あるいは不可欠だからという理由で車を購入しようとする人などほとんどいなかった。むしろ自動車を買う大多数の人にとっての関心は、日常生活を離れて享楽的な生活スタイルを楽しむことにあった。p70-1


 突如ドライバーは、にわか道路計画家に変身した。自動車道路の拡充を求める合唱の声は澎湃として高まり、交通政策が初めて広範な関心を集める話題の中心となった。「町の中心部に駐車場を作れ!」「トレーラーをアウトバーンから締め出せ!」「地方の道路を整備せよ!」「都市の中心部を通り抜けなくてもすむようにバイパスを建設せよ!」――だれもが都市計画家の眼鏡をかけて、世界を眺めるようになった。この眼鏡を通すと、そこここの広大な地域は単に通過するためだけの空間にしか見えなくなる。たとえばホーフォルディングの森やヴォルフラーツハウゼン(ミュンヘンの南南西三十キロほどに位置する町)などは、野生動物が住み、自然の中で人々が英気を回復する森林地帯、あるいは人々が眠り、子供たちが遊びまわる生活の場という本来の姿で眺められることはもはやなくなり、重要な地点どうしを結ぶ線上にあって、できるだけ速く通過しさえすればよい中間点にすぎないものになってしまう。言葉を変えれば、道路計画化は国土を重要な地域と重要性の薄い地域とに序列化し、重要な地域を結ぶ交通が滞りなく確保されることを最優先しようとするのだ。道路計画形の遠慮会釈のない態度は、中間の地域に対する傲慢な軽蔑感に発している。大量の自動車交通はこのようにしてのみ可能となる。そして、六十年代を通して都市計画家や地域開発担当者たちは、至る所で国土の姿を決定的に変えてしまうような事業に取り掛かったのである。p153-5

国土が密度の高い交通手段で覆われれば覆われるほど、国土計画は成功したものと見なされた。かくして、郷土は単なる通過のための空間におとしめられていったのである。p156

まさに都市計画・道路計画の問題点。

 ドイツ自動車工業連合会会長J・H・フォン・ブルンが一九七四年に行なった演説によれば、事実また「時刻表に煩わされずに空間と時間を自由にしたいという願望は、自動車工場で発明されたのではない。それは近代の人間の本質に合致するものであり、消費者自身から生まれてきた。だれもが自分の個人的欲求に一番会う交通手段を利用できなければならない」という。そして、第一次エネルギー危機の直後だった当時、ドライバーを攻撃しようとする人たちに対して、彼は――森で笛を吹く子供をやや思い出させるが――すでに講演のタイトルで挑戦的に答えている。「自動車はもうひとつの自由」。自動車製造業のトップがもちだした「近代人の本質」というのは、曾祖父たちはまだ知らなかったけれど、それでも自動車産業の感覚基盤を表現している。つまり、線路、時刻表、そして他人から自由になりたいという多くの人々の願望である。
 交通科学の学者たちは、なぜこれほど多くの人がバス、市街電車、地下鉄よりも乗用車を優先するのかを解き明かすために、何度も面倒な調査を行なってきたが、結局のところ自明のことを明るみに出すだけだった。大量交通手段に対して空間的、時間的、社会的に自由であること、このことがなんといっても自動車の魅力をなしている。p.170-1

 自動車がその技術面において、個人的な利用に合わせて作られるのは決して偶然ではない。近代の技術史全体が個人化という発展傾向に貫かれているからだ。巨大システムから家具へという流れは、たえず前進していて、鉄道から乗用車への移行はそのもっとも顕著な例である。教会の時計から腕時計への移行とか、映画館からテレビへ、洗濯屋から洗濯機へ、大型計算機からポケット計算機への移行などはそれほど気づかれないかもしれない。しかし、大型計算機からパソコンへの移行は乗用車の例になんらひけをとらないだろう。人間的活動の産業化――移動、時間、見ること、洗濯、計算、伝達の産業化――は、まず集団的利用を求める大型施設からスタートし、それから徐々に小型器具となって身近な場所に進出し、日常の姿や仕種をつくり変えていく。…… つまり、社会的、空間的、時間的に自由に利用できる機械を製造すること、ここに技術発展の基本的な目的設定がある。 …… 多くの進歩した機械は、個人の自由な恣意を抑えない構造をしている。その進歩とは、他の人間との取り決めを不要にすること、特定の場所に依存しないこと、どんな時間のリズムでも越えられることであり。機械が奉仕する客の理想は、個人という王様である。自分の気のままに、社会的、空間的、時間的な障害なくその機能を呼び出す王様である。そうした個別化した顧客は、産業にとっても理想的である。巨大市場は機械の個人化によってのみ獲得できるのである。p.174-5

個々の競技で違いはあっても、線的な記録向上を理想とする点はすべて共通している。伝統的な運動形態では空間的・幾何学的調和は重視され、「美的形式」や「規定」による運動が高く評価されたが、次第に測定されたレコード・計量的な最高成績にもとづく競技が前面に出てくるようになった。p204

武道なんかもそうだな。

 ジョルジュ・バタイユはかつて、ある社会のアイデンティティはその浪費の形態に読みとることができると言ったことがある。他の文化においては、たとえば黄金の祭壇とか祝典とかピラミッドなどに莫大な資金が注ぎこまれ、たが現代社会では過剰資金は生産と消費を絶えず新たな段階に推し進めるために投入される。つまり、経済システムが、物質的生産そのものが宗教的代理人の座に、意味を付与する最高位に就いたのだ。よりベターな製品は、社会全体の注目を浴びる。それは社会的総力の結晶である。いってみれば、アイデンティティを付与する偶像としての――つかのまではあっても、専制的な――ステータスをもっているのだ。p.243-4

 このような背景の上に、新型車は自己改善への誘いとして登場してくる。技術革新のわずかな相違をこれみよがしに押し出して、今までなかった新たな快適さの体験、スピードの体験、あるいは抜け駆けの体験を約束し、ドライバーたちの自己拡大の欲求にアピールするのである。新しいモデルは今まで以上に完璧に多くの欲求を満たしてくれるとすれば、だれがいったい昨日の旧型車で満足できるだろうか。新型車の登場をとり巻くプロパガンダにおいては、世界は恒常的な変化と絶えざる改良の途上にある。そこでは永続的な変動の大スペクタクルが賛美される。この変動に歩調を合わせていれば、どんな上司に小突かれ、細君に苛まれようとも、自分の人生を一回り拡大し、ささやかな幸福の新しい段階に到達し、欲求のいくつかを満たすことができるのだ。日常を超越したいという、深層に潜む欲求は公共の祝祭や宗教的な儀式ではもはや解消されないので、その代償として新型の儀式が華々しく登場し、この役割を担う。そして、小市民のささやかな夢を華やかに彩るのである。p.250

「今や事情は一変してしまった。輝かしい未来を約束してくれるはずのものは次々にただのシャボン玉にすぎないことが露呈されていった。最新の装備も何の慰めにもならなかった」。大衆的なモータリゼーションの進行とともに、かつての奢侈品は単なる日用品の地位にまで落ち、自動車への熱狂は冷め、日常生活の冷静さが再び戻ってきた。どの家庭にも見られる月並みな備品と化してしまったものは、もはや鼻を高々とさせる種にはなりようがなかった。自動車が世に満ちあふれている今、単にそれを所有しているということはもはや何の自己満足にもなりえず、自動車は差別化のシンボルとしての力を失った。社会的な優位をこじしたい人々の向かう先は、もう自動車ではなくなってしまったのである。p.300

「進歩――もう結構!」p.335