「エッチと子どもの性欲は人類の宝」についての雑感

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 大まかに言えば、賛成。しかし、各論では、違和感がある。

芦屋で「AVの真似をしたかった」って言って女の子に暴行した小学生がいたよね。その男子は自分のしたことの社会的な責任が取れないんだよ。大人だって誰かを傷つけたらその傷を完全に癒すことはできない。でも自分がしたことの社会的な責任は問われるし、心身ともに傷ついた体の治療にかかる費用を支払うとか、その人の人生の行く末に誠意をもって責任もつとかね、やることやれよっていう話になる。取り返しのつかない仕方で人を傷つけるっていうのは一生の問題なんだよ。さだまさしも歌にしてるじゃん。

子どもはそんなもの負いたくても負えないの。だから性欲をもてあますのはたいへんだろうけど、あんたの代わりの責任を取る大人の保護下で暮らしなさいってことなんだよ。

ちんちんが大きくなろうがどんなに感度の良いまんまんを持っていようが、変態紳士淑女の社交場にデビューするのは大人になってからなの。

 これを強調しすぎると、「純潔教育」に行き着くのではないか。
 建前論で言えば、責任が取れない間は性行為をするなというのは正しい。私も、基本的にはこの立場だ。しかし、これではパターナリズム的な子供観に陥ってしまうのではないか。性的成熟にともなって、個々の子供の自己決定権と責任は変わっていく。そのあたりをどう制御するかが問題のように思う。その意味で、性教育の方がポルノの問題より重視されるべきだと思う。にもかかわらず、性教育への取組みへの努力は限られている。むしろ、こんなふうな性教育をも押さえつけようとする動きの方が優勢といっていい。はてな界隈での議論は、ポルノ規制の方に向きがちなのには疑問を感じる。「より適切な知識」が性に関する常識になれば、それに応じてポルノの形も変っていくものではないか。そう思うのだが。


 そもそも論で言えば、人類はここ数百年、性の成熟と社会的責任の確立する時期がずれているという課題に直面し続けていたわけで。一番性的に活発といっていい、高校から大学生あたりが、ずっと社会的には半人前という状態が問題なんだよな。30代にはいってくると女マンドクセ('A`)ってな感じになってくるが、あの時期は性欲が強かった。その経験からすると、

彼女がいたっていいよ、恋もしろよ。でも女の子の方から抱いて!って言ってきてもね、おいおいベイビーっ早まっちゃいけねェよ、あんたは起こる結果の責任を取るにはまだネンネだぜ、ってコブラみたいにクールに言い切れるかってことだよ。

なんてのを万人に要求するのは無理だと思う。大体、コブラがこんなことを言えるのは、まさに彼が大人だからだろう。高校時代に、そんな風に迫られたら、確実に断れないな。大人であるコブラは断っても男を下げるおそれは低いが、若者の場合、彼女に「意気地なし」のレッテルを貼られかねない状況なわけで、そのあたりの男性のジェンダー規制にも目を向けるべきではないのかな。


このエントリでも以下のような指摘がなされているように、

子どもにもエロ本見せてやりたい、俺も見たかった。親父がこっそり見えるようなところにおかず置いておいてくれたらどんなによかったか。だから俺は変態フォルダも息子には開放だ! っていう自分の身に置き換えて息子のことを考えるお父さんもいるかもしれない。だがちょっと待って欲しい。だったらそれと釣り合う量の性教育が必要だ。それを漫画やエロゲやAV頼みにするのは片手落ちだよ。

性教育の質と量の拡充のほうが、性暴力の問題に関しては、ポルノ規制より重要に思う。この関連では、「北沢かえるの働けば自由になる日記」の絶望的な気持ちだ内の、

なんていうか、世の中に溢れている情報が極端なわけですよ。学校でやる性教育のところで、恋愛感情やぶっちゃけな欲望の話をしてもいいと思うんだが、たぶん、コンドームの話をしておしまい。こうしたら予防できますってのは、事実で知っておいた方がいいだろうが、じゃあ、その前後にどういうシチュエーションがあるのか、具体的にどういうことになるのか、彼らや彼女らは知らないままだと思うなぁ。

あたりの記述が、本当は最適解なのだと思うけど、無理なんだろうな。基本的に、性の問題は「生殖のためと、快楽のための間で、どう折り合いつけているのか」が最大のテーマで、それを「責任を負えるか」でパターナリズム的に押さえてしまうのは、それもどうだろうと感じる。


 青少年の性行為・性欲の問題に関しては、高校生のセックスは認めない(山形県)だいじょうぶか長崎県あたりが参考になる。

ある地域の●ータリークラブの方の言葉をかりると、「ここらじゃね、デートやセックスがレジャーなんだよ。ほかにはなにもないの」です。
・・・レジャー。・・安全なレジャーにしないといけませんね・・といって帰ってきました。

教育では性交を認めないという言い方ではなく、「延期」の軸を提供できるかがカギとなります。



 結局のところ、性の問題というのは、なんでもそうなんだけど、どう折り合いをつけて、よりマシなものにしていくかというところに行き着くと思う。
 世界は二分法ではくくれない。しかし、はてな界隈の議論を見ていると、フェミニズムの方向の人に、顕著に二分法的な世界観が見えるように思う。性別にしても、男性と女性とその間に多様なグラデーションがあるし、性行動にしても積極的・消極的かなりの濃淡の差がある。そこから、なるべく傷つく人がでない形で、なんらかの形ができると良いなと思う。