武井弘一『鉄砲を手放さなかった百姓たち:刀狩りから幕末まで』

鉄砲を手放さなかった百姓たち 刀狩りから幕末まで(朝日選書)

鉄砲を手放さなかった百姓たち 刀狩りから幕末まで(朝日選書)

 江戸時代の百姓たちが、実際には鉄砲を所持し続けたこと。その鉄砲が何のために所持され、どのような規制を受けたかを、時代に沿って明らかにする。日本全国ではなく、直接幕府の方針の影響が及んだ関東地域を対象にしている。逆にいえば、日本全国では、かなりコントラストがありえたのではないかと思う。より規制が、きつくなるにしろ緩くなるにしろ。
 ほぼ時代順に論じられている。第一章は、四代将軍家綱の時代。「鉄砲改め」による銃規制の開始とその意味。鷹狩りに伴う儀礼は幕府と大名の関係を可視化する政治的に重要なものであり、鷹のための餌としての鳥の保護・確保のために鳥の捕獲が禁止された。また、鷹場の設定は、領地が錯綜する関東地域の地域編成のためにも利用された。鉄砲は関東一円で、獣害から耕地を守るために登録制で保有を認められ、その管理は村の自治を通じて行われた。
 第二章は綱吉の時代。生類憐みの令で有名だが、これらの政策は「文治」を導入しようとする試みとして、最近は評価されるようになっている。ただ、本書のような百姓と動物の関係、あるいは法律を破った人間を死刑にした事例などは、生類と人間を等価とすると称しながら、むしろ生類を保護して、人間をないがしろにする歪さを感じる。綱吉の政治が悪政とされるのも分かる。銃の規制が強化され、獣の射殺が禁じられた結果、獣害が悪化する。このあたり耕地の拡大による人間の活動領域の拡大と狩猟圧の低下による鹿や猪の生息数の増加、法律によって狩猟を禁じられた結果人間を恐れなくなったあたりが原因なのだろうな。
 第三章は吉宗の時代。鷹狩りや獣の駆除が復活する。一方で鉄砲改めも復活。村の自治を基本にした鉄砲の管理が確立。また、関東一円が鳥の禁漁区として、明らかにされる。
 第四・五章は、幕末に向かう大御所時代以降。江戸時代前半の鉄砲規制の目的が、鳥類の禁漁や殺生禁断と言ったテーマだったのに対し、この時期には、銃規制は治安目的が主眼になる。この時期、「村の荒廃」によって無宿や博徒等のアウトローが増え、治安が悪化していた。彼らは長脇差、槍や鉄砲等の武器を所持していたようだ。彼らへの武器の流出を阻止することが目的となった。
 終章は、全体のまとめ。ここでは、「農具としての鉄砲」というのが強調される。森林荒廃のため、幕府は御林制度などの規制を行った。しかし、この制度は、有用樹種の伐採規制が主眼だったため、むしろ森林の雑木林化を促進した。その結果、雑木林は鹿や猪の生息地となってしまう。それに対し、様々な対策を行うが、その中でも一番有利な道具として鉄砲が選択された。また、この鉄砲に関しては、村の自治を前提に管理され、信頼できないものには使用させないなどの対応がとられた。
 本書は、過去に発表した論文の骨格を基に再構成された本だそうだ。結果として、全体の流れが、いまいち見えにくくなっているように思う。なんかぶつ切り感がある。「農具としての鉄砲」、鉄砲規制の意味、人間と動物の関係など、魅力的なテーマが多いだけに、逆に輻輳してしまったのかもしれない。


 いくつか難しいなあと思ったこと。
 第一は「〜の荒廃」という語への疑問。ここでは「森林の荒廃」と「村落の荒廃」と二つ出てくるが、どちらも微妙な単語だなと。前者は有用樹種・林産資源の枯渇ではあるものの、雑木林ってのはむしろ自然林への遷移ともいえるのではないか。まあ、低木だらけになるのだから、「荒廃」ではあるのだろうけど、植物による被覆そのものは維持されたのだろうし。後者に関しては、これは統治する側からの意見だなと。流通経済の発展に伴って、人の移動、より有利な生計を求めての移動が活発になったと理解するべきなのではないだろうか。関東では、江戸の都市墓場効果によって、人口が減少したそうだから「荒廃」というのはなくもなかったのだろうけど。
 第二は、史料の問題。村方から獣害がひどいから実弾の使用を許してくれという訴えがたびたび出されているが、実際にはどの程度の被害だったのか。誇張がないかが疑問。鉄砲による駆除もそれなりにコストがかかっていたようだし、他にも対抗手段があったわけで。獣肉を食べていたという食生活が規制されてしまったという側面も含めて、額面通りには受け入れられないような気がする。

「鉄砲は、百姓たちを一気を一揆に集結させたり、一揆の行動統制のための合図の鳴物として使用されていた。だから、武器としての使用は可能であっても、百姓一揆の武器であると考えてはならない。また、正確に言えば得物の範疇にも入らない鳴物なのである。」


 保坂はこのように指摘する。百姓が領主に対抗するためには、数で圧倒するしかない。そうしなければ、武器を持った領主に鎮められてしまうからだ。いかに大きな集団をつくるのか、これがポイントになってくる。そのために寺院の鐘が鳴らされ、ほら貝が吹かれ、いっせいに結集する。その合図の一つとして鉄砲の音が使われたのであった。しかも、百姓一揆に鉄砲が持ち出されることは少なくないものの、一揆側の鉄砲がヒトに向けられて発射された例はない。やはり武器としてではなく、音をたてる鳴物として使用されたのである。だから、得物といえるほどでもない。p.136-7

 一揆での鉄砲の使い方。発射音で人を集めるためのものだったそうだ。まあ、一般的な一揆そのものが、現在のデモに近いものだからな。武装反乱ではなく、政治交渉の一手段。簡単に鎮圧されないように、それなりの武装は持つわけだが。
 あと、鳴物としての鉄砲ってのは、アラブ世界あたりで結婚式の時などにAKを乱射する習俗を思い起こさせる。

タイ北部のカレン族・ラフ族の村では焼畑をし、狩猟にも連れて行ってもらった。すると実りの季節に、貴重な稲が猪に食べられていた。さぞや落胆すると思いきや、むしろ狩りをするためのビッグチャンスだと喜んでいた。p.239

 なかなか興味深い話。