盛本昌広『軍需物資から見た戦国合戦』

軍需物資から見た戦国合戦 (新書y)

軍需物資から見た戦国合戦 (新書y)

 久しぶりに読みたくなったので、召還。
 北条家の文書を中心に、戦国大名が戦時に必要な物資をどのように調達したのかを追っている。植生の変遷と人間活動の関係を見る、環境史の流れに即した本。植物資源に依存していた、前近代は、本当に山林の維持管理が重要だったんだな。
 陣地や城郭の柵を建設するための「尺木」や竹、縄。川を渡って軍事行動を行う際には、船を徴発し、その上に板を渡した船橋がかけられる。その固定用の杭や敷板、連結用の綱をなう竹など。さらに、ちゃんとした建物を建設するためのさまざまな木材。家庭用や製鉄用の燃料につかう炭。攻城戦には、勢楼のための材木など。また、水軍を建設維持するためにも、良質の木材を多数必要とした。戦ともなれば、槍などの柄や弓矢、旗ざおなどに、さらには鉄砲の弾除けに、大量の竹木が大量に消費される。陣地の照明や煮炊きには、薪が必要とされる。領国を維持し、戦争を遂行するためには、さまざまな木材が必要とされる。戦が始まると、近辺の竹木は根こそぎ略奪される。また、建物も壊され持ち去られる。略奪から逃れるために、村や寺社は、大名から禁制を獲得するが、最終的に自らの資源を守るのは、自力の武力であると。
 このような資材調達のために、北条氏は、在地の集団や寺社にさまざまな賦課を行い、資材を調達した。また、相模川上流地域や伊豆半島を木材の供給源とし、在地の山造や製材を行う大鋸引を組織し、生産を行わせていた。また、山の管理者を任命し、有用な木材の切り出しの監視をおこなわせていた状況も紹介される。鎌倉の有力寺社に木材加工の専門職が集中していたのも、北条には有利だったのかもな。紀伊半島からの軍船の購入も興味深い。秀吉の小田原攻め直前になっても、軍船を北条に売却できるような環境だったんだ。
 第四章以降は、制度的な話に。
 第四章は、戦国大名の資材調達のシステムに関して。恣意的・無制限な徴発を防ぐために、当主が朱印状を発給して、木材資源が調達された。また、寺社境内の伐採禁止の禁令が頻繁に発給されたが、周辺住民の必要から、必ずしも守られなかった状況。関ヶ原の前哨戦で境内の竹木伐採に抵抗した醍醐寺の事例から、実力でもって資産を守る必要性があった状況を明らかにする。また、立野・立山といった特定樹種の伐採を制限したり、立入りを制限した地域が設定され、資源の保護が行われた。このような立野は寺社や村落上層といった在地の主体によって設定されたことが指摘される。
 第五章は戦国時代の植林について。伐採や立入りを制限して、「はやす」というのが、竹やぶを中心に行われたこと。それから進んで、植林が行われたこと。このような、植林の技術は寺社を中心に蓄積され、苗木などが流通していた状況が明らかにされる。また、植林の技術にしても、近世と変わらないレベルであったことが指摘される。
 終章は、戦国時代の森林資源の乱用が、その後、洪水などの災害を誘発したのではないかと指摘している。確かに、大戦後の森林荒廃のアナロジーは成り立ちそうに思えるが。実証は難しかろうなあ。その後も、植生の劣化にともなう、植林は近世前半を通じて、頻繁に奨励されるわけだが。
 戦国大名が、さまざまな植物資源をどのように動員したかについて、明らかになる書物。一方で、戦国大名の発給文書という史料に制約されている側面も強い。植物資源に依存していたのは、大名だけではなく、その配下の武士達も同様であり、また地元の百姓たちも自己の経営のためにさまざまな資源を利用していた。そのあたりまでは、なかなか手が及ばないのだなと。盗伐を防ぐ禁令が多数出され、監視する山守が任命されるということは、周囲の住民の日常的な利用とそれを抑圧する状況があるわけだし。あと、五六など、規格化された木材が流通していた状況を考えると、戦国大名の領国を超えた範囲で、大量の木材が流通していた姿も窺えるが、これもぼんやりとして見えないな。寺社が、木材を備蓄していて、戦国大名が必要な時には借りたり、買ったりしていたということは、木材の生産・流通を担っていたのも寺社なのだろうか。
 あと、木の乾燥の問題。全体として、木を切り出して、すぐに利用しているようだが、乾燥は必要なかったのだろうか。生木だと、あとあと、狂いがでそうだけど、そこまで長期間使わなかったということなのだろうか。


 以下、メモ:

 つなぎ柱や竹以外に、この朱印状では敷板・尺木・縄・藁・筵が徴発されている。この中でまず敷板に検討を加えよう。敷板は四十枚の確保が命じられ、うち二十枚は矢部氏自身が持っており、残りの二十枚は善清寺より借りるように命じている。敷板は船の上に敷く板であり、先の『一遍聖絵』では川の流れに沿って並んでいる船に平行に並べられている。板の長さは船より少し短いくらいで、幅は狭くなっているのが特徴である。そのため、たった七隻にもかかわらず、板の数は数十枚に上っている。p.40-41

 現在は合板や集成材で幅の広い板も違和感ないけど、かつては、幅の広い板を作るには、それだけの太さの木が必要だったんだよな。そう考えると、戦国時代には板って貴重品だったのかね。

 小牧・長久手の戦いが始まった直後の三月十八日に、家康は尾張の山王社(愛知県清須市)に三ヶ条の禁制を出した。放火・竹木の伐採の禁止は戦時の禁制として一般的に見られるものだが、もう一条は軍勢による社塔の破り取りを禁止したものである。これは寺社の建物を破壊して、軍事用の材木に転用する行為が行われていて、それを防止するためのものである。p.131

 ひえー

 また、禁制では侵入者をわざと見逃したら、閼伽井坊や寺領の百姓を罪科に処すとも述べている。これは一方では知り合いなどの縁によって、刈り取りを黙認することも行われていたことを示している。こうした縁を断ち切って、立野の利用を寺と寺領の百姓に限定することを禁制は意図していたのである。p.166

 こういう、中世のネットワークを否定して、地縁的団体に収斂していく動きが、近世の村の前提なのかもな。