寒川旭『地震の日本史:大地は何を語るのか』

地震の日本史―大地は何を語るのか (中公新書)

地震の日本史―大地は何を語るのか (中公新書)

 考古学的な発掘調査、断層のトレンチ調査、記録史料によって、縄文から最近まで、日本列島でどのような地震災害が起きてきたのかをまとめている。まあ、日本列島に住んでいる限り、地震との付き合いは不可避であるというのがよく分かる。あと、大概の土地で、何百年に一回くらいの頻度で地震の被害に遭っていること。気になるところは、年代ごとにまとめているので、地域単位では分かりにくいところがある。あと、地域的な記述の密度の差が大きいようにも思うところ。発掘調査の量や担当者の資質に拠るのか、四国や関西から中部地方にかけての情報に比べて、九州や東北などは少ないように見える。また、北海道や沖縄に関する情報が少ないのも気になる。
 本書では、地震の証拠として液状化による噴砂の痕跡が多く出てくる。やはり、遺跡に残された痕跡として、噴砂と断層の食違いが一番検出しやすいのだろうけど、そうなると相対的に地盤が安定した場所では、過去の地震についての知見が少なくなるわけで、それによる認識の偏りは問題にならないのだろうか。ちょっと疑問に思った。あと、記録史料が質・量ともに充実する近世以降と中世以前では、情報の精密さにずいぶん差があるのも興味深い。


 以下、メモ:

 まず、744年7月6日(天平16年5月18日)には肥後国に雷雨と地震があった。八代、天草、葦北三郡の官舎と田290余町、民家470余区、人1520余口が水中に漂い、没した(『続日本紀』)。p.42

地震火山17貞観の肥後地震(書き直し再掲)
 古代の史料によれば、熊本県でも744年と869年に津波を伴った地震災害が発生した可能性があるそうだ。ただ、地元の人間としては、どうにも有明海地震による大津波というイメージがないんだよなあ。なんか、その年にあった災害をひとまとめに並べたようにも見えるし。近世以降に、地震を直接的原因とした津波災害がなかったこともあるのだが。もう少し調べてみるか。有明海の海底を震源とした地震も断層もあるわけで、可能性はゼロではない。内海しかなくて、しかも内陸に住んでいると、どうにも津波への危機意識がない。史料を見ても、風雨と地震をいっしょくたになっているあたりで、信ぴょう性に疑問符がつくし。津波堆積物の検出のような、動かぬ証拠があれば別だが。


 まあ、下の1596年の別府湾の地震のように、内海でも、複数の断層が連動すれば、かなりの規模の津波災害が起きうるわけで、そのあたり、油断は禁物ということなのだろうけど。

 播磨の三木城主中川秀政は、朝鮮へ出兵したが、功なく戦死し、期待を裏切られた秀吉は、弟の秀成に相続を許したものの、伊予の宇和島、淡路の洲本、豊後の岡(大分県竹田市)のいずれかに移るように命じた。二年後、彼は家臣を伴って豊後の岡に移ったが、その費用は、堺の商人出身で家臣の柴山両賀がまかなった。
 両賀は娘婿の柴山勘兵衛重成とともに、秀成の領内の沖ノ浜に移り住み、船を建造して海外との交易を行った。その後、両賀は高麗に渡り、重成たち30余名が沖ノ浜に残った。
 重成の妻が男子を出産してから四日後の、1596年9月1日午後8時頃(文禄5・慶長元年閏7月9日戌刻)に別府湾周辺は大きな地震に見舞われた。大分市西部の海岸に位置した柞原八幡宮も被害を蒙り「当社(柞原八幡宮)拝殿廻廊諸末社、悉顛倒畢、又此日、府中洪濤起て府中並近辺の邑里、悉成海底、黄昏時分也」(『由原宮年代略記』)と、震動・津波の被害が記録されている。
 激しい揺れに続いて、沖ノ浜の浦から潮が押し寄せ、両賀たちの屋敷も海の中になった。重成は急いで、家の系図と感状の入った挟箱と持鑓(槍)を取り出し、家の屋根を脇差で切り破り、妻と二人で屋根にいると、7尋(約12メートル)ほどの舟板が流れてきたので、これ幸いと二人で乗り移ったが、引き潮で沖へ流され、危険な目にたびたびあった。しばらくして、波も風もおさまった頃、小舟がやって来て「この舟にお乗りください。お助けします」と言ったので、二人とも喜んで、急いで舟に乗った。書物を入れた箱と槍も乗せて、しばらくして今津留という島に上陸したが、ここも大波に崩れて人家が見あたらなかった。産後五日の妻はひどく疲れていたが、翌日、沖ノ浜から家来たちが尋ねて来た。彼らに、どうやって助かったか聞くと「崩れた家に取り付いて、南の山際まで打ち寄せられ、山に上がった」と話した。そして、かれらは沖ノ浜に帰った(『柴山勘兵衛記』)。
 『ルイス・フロイスの報告』にも生き残った者の話として「高い古木の頂から見えたところによると、大変な激烈さで、海は一里も一里半も陸地へ這入りこみ、波がひいたとき、沖ノ浜の町の何物をも残しませんでした。その町の外にいた人々は助かったが、あの地獄の巨人がつかまえた人々は、すべてぼみこまれ、伴れ去られました。男、女、子供、老人、牡牛、牝牛、家その他無限の品物が持ち去られ、あらゆる物が、そこにかつて陸地がなかった如く、深い海に変えられました」と書かれている。
 1699年に府内藩の戸倉貞則が書いた『豊府聞書』の写本である『豊府記聞』には、勢家村の二〇余町北に有名な瓜生島、あるいはまたいう沖浜町があり、南本町・中裏町・北新町という三つの町が細長く延びて農工商漁人が住んでおり、地震により瓜生島の境内が皆、ことごとく沈没したと記述されている。ここで登場する「瓜生島」は、重成たちの住んでいた沖ノ浜を含む一帯と考えられるが、1596年の大地震によって姿を消した幻の島として郷土史研究の上で注目を集めている。
 最近、島崎邦彦(東京大学地震研究所)・中田高(現・広島工業大学)・岡村真が、別府湾海底を音波探査で詳しく調べて東西に延びる複数の活断層(別府-万年山断層帯の東部)を発見した。海底に堆積した鬼界アカホヤ火山灰(第一章参照)を指標にして、杵築沖北断層・杵築沖南断層・豊岡沖断層などが北上がり、亀岡沖断層などが南上がりの変位を繰り返していた。そして、大分市の大在沖では、断層活動によって塞き止められて堆積した地層や、火山灰層の年代から15世紀以降で17世紀以前に最新の活動があったことがわかった。1596年の別府湾の地震は海底に潜む複数の活断層から発生し、海底が変位して津波が押し寄せたと考えられている。p.91-94


 『日本三代実録』には、869年7月13日(貞観11年5月26日)の夜に陸奥国で大きな地震があり、倒れた人々は起き上がることができず、あるいは家が倒れて圧死し、地割れに埋まって死に、城郭倉庫・門櫓垣壁が無数に崩れ落ち、海水が怒涛となって多賀城の城下まで押し寄せ、溺死者が1000人ばかりなどと書かれている。宮城県沖で発生した大型地震津波被害の記録だが、箕浦幸治(東北大)は、仙台市や相馬市の海岸から数キロ内陸よりの地点で津波で運ばれた堆積物を確認している。その後、産総研の澤井祐紀らの地質調査で、仙台平野において海岸から2-3キロまで津波が遡上したことが明らかになった。p.49

 貞観地震津波。ある程度は、過去の事例の研究から判っていたのだろうけど…

 1498年の地震は東海(明応東海)地震と考えられており、最大波高8メートルを超える大規模な津波が関東から紀伊半島の太平洋沿岸地域を襲った。都司嘉宣(東京大学地震研究所)と矢田俊文(新潟大学)は、紀州藩儒学者である仁井田好古が1839年に完成させた地誌『紀伊風土記』の記述から、現在の和歌山市で紀ノ川河口にあたる地域が大きな津波で被害を受けて移転したことを指摘した。「上町、網屋町、材木町、植松町(この)四町旧和田浦鵜ノ島にあり、明応の頃津波により、この地に引き移りたる町なり。鵜ノ島は今、名草郡雑賀荘松江ならび北島の地なり」という記載について、都司は、和田浦が大きな津波に襲われて鵜ノ島が壊滅し、住民はこの地を離れて移り住み、これが上町、網屋町、材木町、植松町となったと解釈している。p.71

 この地震では大阪湾にも津波が押し寄せて市街の川や堀をさかのぼった。『今昔地震津波記』によると、道頓堀の日本橋まで、迎船6、70隻が飛び込み、50石や30石の船は大船に押し倒されること数知れなかった。日本橋西の橋が落ち、堀江川では堀江橋まで落ちた。長堀は無事だったが、安治川筋では堂島田蓑橋まで落ちた。渡辺橋はかなり損傷して往来を止め、寺島・勘助島上下・博労近辺の家々は残らず流れた。阿波座・新靭・京町堀は大分崩れ、雑喉場は大半が崩れ、残りは流れた。鰹座は残らず流れて死人が夥しかった。p.139(1707年宝永地震

 過去の東海・南海地震津波被害。西日本の太平洋沿岸は、どこも津波の危険にさらされている。内海でも、津波の危険性は結構高いのだよな。

 有馬―高槻断層帯と淡路島の活断層の間にそびえる六甲山地の南麓には、多くの活断層(六甲断層帯)が発達しており、淡路島の活断層と合わせて六甲・淡路島断層帯とも呼ばれる。六甲山地南麓の低地には伏見地震の痕跡が多く発見されており、南麓に発達する活断層系の全部または一部が伏見地震で活動した可能性が高い。伏見地震は、京都盆地南西部から大阪平野北縁を通り、淡路島にいたる長さ80キロの範囲にある多くの活断層が一斉に活動した、内陸地震としては最大級のM8近い規模を持つ大型地震と考えられる。p.111

 内陸でもやばい地震は起こりうると。むしろ直下型になるだけに局地的なダメージは大きそうだ。

 当時。湯島に住んでいた新井白石は、『折たく柴の記』の中で、「癸未の年、11月22日の夜半過る程に、地おびただしく震ひ始て、目さめぬれば、腰の物どもとりて起出るに、ここかしこの戸障子皆たふれぬ」と筆を走らせた。『徒目付千坂氏覚書』には、土地は二三寸、所によっては五六尺程も割れ、砂または泥水を吹出した。石垣は崩れ、塀は壊れ、家蔵は潰れ、穴蔵はゆりあげられて死人怪我人が一時にできて、男女老幼の泣き叫ぶ声は大風のごとくに鳴り渡り、所々から火事が起こった。品川の海(東京湾)から大津波が打ちあげてきて、浜の方に逃げだした者は、そのためにことごとく波に捲き取られたと書かれている。p.135

 1703年の元禄関東地震の話。関東大震災と元禄の関東地震と、関東では相模トラフによる地震が200年に一度程度の頻度で起きているようだ。あと、内海で湾内が広い東京湾でも、それなりの津波が襲ってくる危険があると。熊本だと有明海は内海だから、津波は余り気にしていないが、内海でも油断は禁物ということか。

 小田原町の南で、相模湾に面した片浦村根府川地区では、地震から五分後に波高数メートルの津波が押し寄せた。同時に、十七町(1.8キロ)の長さにわたって背後の山が崩れ落ちた。崩壊した岩や泥は空気を圧縮して「岩屑なだれ」となり、根府川集落の64戸と406人を呑み込んだ。一方、根府川駅のホームに入った小田原発の列車は、背後の崖が崩れたため、乗客を乗せたまま海岸へ転落し、直後に津波が襲いかかって100人余が命を失った。さらに南に位置する真鶴村の建物は倒壊・炎上して、海岸付近では津波に押し流された。一方、相模湾東端の鎌倉町では二千数百戸が全壊した後に燃え尽き、津波由比ヶ浜海岸にいた人々や海岸付近の家屋を押し流した。p.213-4

 関東大震災の時の津波と地盤災害の事例。関東大震災では、東京や横浜の火災がクローズアップされ、津波などの被害はかき消されがちではあるが、このあたりも忘れてはいけない危険性。

 1978(昭和53)年1月14日午前12時24分に伊豆大島近海地震(M7.0)が発生した。この日の午前9時45分と47分にM4.9の地震が続き、気象庁が警戒をうながした後の地震だった。伊豆大島の海底から伊豆半島に向かう断層の活動によるもので、山崩れ・落石・堤の決壊で25人が犠牲となった。半島の急峻な地形が開発で改変されたことが被害を大きくした。p.241

 考古学の遺跡で地形の成り立ちを調べていた高橋学(立命館大学)は、この地震による被害と表層地質の関係を明らかにした。それによると、縄文時代に海が侵入し、都市化が進むまで湿地だった地域の被害が大きく、とりわけ、埋没した旧流路上の橋脚や家屋の倒壊が著しかった。西宮市内で山陽新幹線の橋脚部が五カ所で落下したのも、皆埋没河道の上だった。p.247

 都市化が進んだ地域では、開発によって地形が改変され、池や川や海を埋めた場所でも、ほとんどの人が知らずに住んでいる。土地の名称がみやみに改変されている現状では、地名から土地の履歴を察知することも難しい。明治時代前期に参謀本部が作った仮製地形図は昔の地形を知る貴重な資料で、大きな図書館で閲覧できるはずである。また、考古学の遺跡発掘調査は、地面の近くの地盤を知ることに役立つ。地震の被害は地形や地盤によって異なるが、発掘現場で地層や地震の痕跡を見て、将来の地震による被害を推測できる。p.256

 地形改変の危険性。戦後の無理な開発は、地盤災害の危険性を高めている。今回の地震でも明らかになったが、埋め立て地や元湿地、元田んぼなどでは、液状化によってライフラインが破壊され、建物は不等沈下の被害を受ける。そして、不等沈下による被害は何らかの補償の対象になりにくい。その土地が、元はどんな土地だったかの知識は本当に大切なものなんだけど、社会的な常識としては定着していないんだよな。ここはさすがにやばいだろって場所で高い買い物している人がいかに多いことか。
 ついでに言うと、今後三陸地域を中心に進められるであろう高所移転は、今度は地盤災害を引き起こす危険が高いのではないかと懸念する。高いところに移転したら、今度は地すべりで犠牲者多数なんて自体は見たくない。