「検察の調書:創作文化改め一問一答に ジャーナリスト粟野仁雄」『朝日新聞』10/12/2

 朝日新聞がスクープした大阪地検のフロツピーディスク(FD)改ざん事件は、元厚生労働省局長の村木厚子さんが雪冤を果だした郵便不正事件裁判を大阪地裁で傍聴していた身としては、「起こりうることだな」というのが実感だった。法廷で多くの関係者が「言ってないことを書かれた」「調書は検事の作文」と証言した。横田信之裁判長は供述調書の多くを証拠採用せず、村木さんは無罪判決を勝ち取れた。
 だが、なぜ「言ってもいない調書」になるのか。
 わが国では、検事が作成する供述調書は被疑者とのやり取りの再現ではなく、「一人称独白体」といわれる世界でも珍しい、いわば本人の一人語り形式だ。だから検事が「お前、相手が死んでも構わんと思ったんやろ」と迫り、「はあ、まあ」などと生返事しても、「私は被害者が死に至ってもやむを得ないと思い、ナイフで……」など立派な調書が仕上がる。
 現在、ごく限定的に一問一答方式の調書があるが、すべてをこの形式にすべきだ。村木さんの部下だった元係長は、「検事さんが言ったことがまるで私か言ったように書かれた」と法廷で証言した。調書をやり取りの再現にすれば、インチキはやりにくいはずだ。
 物書きの私は、たまに話題の人物の「手記」を手がけるが、相手とのやり取りから「一人語り」に仕立てる。実は調書作成と似ている。相手に原稿をチェックしてもらうが、「ニュアンスが違います」などと手を入れられることも多い。
 取り調べられた人は調書を読み聞かせられるが、強圧的でなくとも取調室になど長くいたくないから、多少不満でも署名・指印してしまう。だが、法廷で「調書はうそです」と証言しても、署名があればまず通らない。このため、検事たちは「調書主義」の裁判官の目をくらますべく、一見筋の通った調書作りに奔走してきた。
 「供述内容の具体性、迫真性は後で作り出すことも可能である」。無罪判決での横田裁判長の指摘に思わずひざを打った。以前、買収会合をでっち上げられ、鹿児島県議ら住民13人が選挙違反で起訴され、ぬれぎぬを着せられた冤罪「志布志事件」を取材したことがある。架空の買収会合に見事な臨場感を盛り込んだ供述調書を見て、「検事など辞めて、さっさと小説家にでもなれ」と思ったものだ。
 周辺関係者の取り調べで、検事が自分の発言や方向性を混ぜ込んで作成した「創作調書」が、否認を貫いた無実の村木さんの逮捕・起訴を可能ならしめた。だからこそ、真実を語る物証のFDが邪魔になったのだ。
 改ざん事件の原点は、検察庁の積年の「創作調書文化」にある。

 全く同意。以前から、あの供述調書はなんであんな不思議な体裁になっているのだろうかと思っていた。法曹界で、あの小説の形式を変更しようという議論が大きくならないのが不思議ではある。取調側の主観が濃厚に入る、他人が書いた一人称スタイルが、そもそも証拠能力に欠けているのではないか。可視化も当然必要だが、書式を変えようという議論が少ないのも不思議ではある。ちゃんと書記官もいるんだから、そいつにきちんと書き取らせればいいのだし。