伊藤和明『日本の地震災害』

日本の地震災害 (岩波新書 新赤版 (977))

日本の地震災害 (岩波新書 新赤版 (977))

 ここのところ、地震関係の本を親書を中心に読んでいるが、その一冊。関東大震災から説き起こして、20世紀の主要な地震災害を、その性格に分けて紹介している。以下、第二章が昭和初期の内陸直下型地震、第三章が太平洋戦争中から直後にかけての大規模な地震災害、第四章近代化にともなう環境改変が起こした新たな地震災害、第五章三陸日本海津波災害、第六章地震にともなう山体崩壊、第七章都市直下型地震と、おおよそ時系列に展開していく。しかし、こう整理されると、人間活動の展開にともなって、地震による被害も性格が変わっていくのがよくわかる。本書刊行後も、2008年の宮城・岩手内陸地震では大規模な山体崩壊が起きているし、今回の東日本大震災では巨大な津波が太平洋岸を襲っている。しかし、宮城県周辺は地震が頻繁に起きているな… 特に21世紀に入ってから目立つ。


 以下、メモ:

第一章 関東大震災

 震災後の調査から、横浜での流言の発生源となったのは、市内で起きた日本人による集団強盗行為だったと考えられている。立憲労働党の総裁山口正憲が、避難民の窮状を救うためと称して、「横浜震災救護団」を組織、団員を煽動して、民家から手当たりしだいに物資の略奪を繰り返したのである。集団を組んで次々と民家を襲う強盗団に、民衆は恐れおののき、それがいつのまにか朝鮮人の暴挙と誤解されたに違いない。p.26-7

 関東大震災時の流言のもとになったと目されている事件。いや、こういうことする奴がいたんだな。絶句。しかし、立憲労働党というから左翼系かと思えば、右翼団体なんだそうだ…

第三章 戦争に消された大震災

 名古屋市の三菱航空道徳工場は、「零戦」と呼ばれていた戦闘機の製造工場であったし、半田市にあった中島飛行機半田製作所山方工場は、当時全国の航空機生産の約7%を占めていたとされ、高性能偵察機「彩雲」を生産する中心工場でもあった。これらの工場では、航空機生産のために柱を何本も抜いてしまうなど、耐震への配慮がまったくなされていなかったため、激震によってたちまち倒壊し、多くの人命を奪ったのである。p.52

 1944年の東南海地震が日本の継戦能力に与えた影響ってどのくらいだったんだろう。航空機生産は停滞を余儀なくされたと思うけど、徹底的に隠蔽されたせいか、よく分からない。直後から空襲をうけているしな。

 この日、諏訪警察署長は、市民に対して次のような布告を発表している。
 「本日午後1時40分ごろ、諏訪市震源とする地震発生。市内に大きな被害がでたが、郡民は流言に惑わされず、復旧と生産に励め」
 警察署長が、この布告のなかで、“諏訪市震源とする地震”と発表したのは、市民に諏訪の局地的地震と思いこませ、名古屋方面の大震災について知る機会を与えない意図があったからとも考えられる。そのため諏訪の市民は、戦後の長いあいだ、この地震を“諏訪地震”と呼んでいた。
 市民がこれを東南海地震だったと知るのは、地震後四〇年を経た1984年であった。この年の9月、長野県西部地震が(M6.8)が発生し、御嶽山が大崩壊するなど、王滝村を中心に大規模な土砂災害に見舞われた。この地震が契機となって、1944年に起きた通称“諏訪地震”の真相を知ろうと、市民有志が立ち上がり、当時の中央気象台による『極秘 昭和十九年十二月七日 東南海大地震調査概報』や『気象要覧』を調べ、地震の真相を究明したのである。p.54-5

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 1984年になるまで、諏訪地域の飛び地的な被害が、局地的地震と思われていたという… なんともすごい話だ。

第四章 環境改変が招いた都市災害

 新潟地震による災害を特徴づけたものの一つに、石油タンク群の火災がある。
 新潟市では九件の出火があり、うち四件はすぐに消し止められたが、昭和石油新潟製油所のタンクから出火した二件は、二週間以上も燃えつづけ、鎮火したのは七月一日であった。
 このタンク火災は、2003年9月26日に起きた十勝沖地震(M8.6)のさい、苫小牧市にある出光興産北海道製油所のナフサ貯蔵タンクが燃えたときと同様、スロッシング現象によるものであった。p.76

 東日本大震災でも市原と仙台でタンクが火災を起こしているな。あれは防ぎようがないのだろうか。今のところ、外部に燃え広がるような自体は避けられているが、将来起きないとも限らない。

新興住宅地に集中した地盤災害
 宮城県沖地震による仙台市での被害分布をみると、江戸時代から人が住んできた中心部の旧市街地では、被害が軽微だったのにひきかえ、それを取りまくようにして、周辺部に比阿木の集中していることがわかる。これらの地域は、戦後に発展した新興の開発地であり、東部の海岸に近い平地は、水田だった所を埋め立てて造成された産業団地、北部から南西部にかけての丘陵地帯は、仙台市ベッドタウンとして開発された造成宅地であった。つまり、42年前には存在しなかった大都市周辺の開発地が、主に被災したのである。
 埋め立てによる人工地盤の上に開発された産業団地では、誘致された各企業のビルで、一階部分が潰れてしまう被害が目立った。
 さらに深刻だったのは、丘陵造成地での被害である。各所で地盤の崩壊や地滑りが発生して、その上に建てられたマイホームが、足元をさらわれたようなかたちとなって全半壊した。
 宅地開発が進められる前、これら丘陵地帯は緑豊かな森林におおわれていた。しかし、都市圏の拡大とともに、ふくれ上がる仙台市の人口を吸収するために、森林は伐採され、住宅地に変えられていった。このとき、かなりずさんな造成が行われたとみられる。丘陵を刻んでいた谷に、大量の土砂を運びこんで盛土し、一見なめらかになった地形を雛壇式に開発して宅地化を進めていった。このようにして造成された宅地が、見晴らしのよい高級住宅地として売りだされ、危険を潜在させたまま発展していったのである。
 このような地域に激しい地震の揺れが襲ったとき、もともと丘陵を構成していた地盤と、新たに盛土して造られた地盤との性質の違いから、両者の境界をすべり面として、斜面の崩壊や地すべりが多発した。この事実は、ずさんな都市周辺開発、拙速な環境改変がもたらした、人災的側面の大きな災害であったことを物語っている。
 したがって、宮城県沖地震による災害は、高度経済成長が招いた開発優先の思想に、大きな疑問を投げかけた、極めて現代的な震災だったといえよう。p.85-7

 今回の東日本大震災でも、この手の新興住宅地にかなりの被害が出ているな。浦安の埋立地の被害に、先日報道された盛り土宅地の被害(→住宅地に地滑り危険地帯 1000か所で見つかった「共通点」)と。仙台周辺に多いそうだし。切り土だけなら、ここまで被害は大きくならないんだろうけど。
関連:建物は「平地・平場」でなければ建てられないか? 昔の人の方が利口だったと…

第五章 大津波襲来!

 津波とともに火災が発生した事例は、けっして少なくない。1933年昭和三陸地震津波のとき、岩手県の田老や釜石などで火災が発生している。1964年新潟地震のときには、破損した石油管から漏れでた油を津波が運び、そこから着火して燃えひろがり、民家約290戸が焼失した。私が取材した1964年アラスカ地震のさいも、大津波に襲われたアラスカの港町バルディーズで、漂流物が石油タンクに衝突して火を発し、民家に燃えうつって町が全焼していたことを記憶している。このように、“津波に誘発される火災”は、津波災害の盲点ともいえよう。p.117

 気仙沼の事例が。他でも、閖上あたりでも、民家が燃えながら押し流されていたな。

第六章 山地激震!:山崩れの脅威

被害を拡大した人災的側面
 伊豆大島近海地震では、開発による被害の拡大が指摘された。
 犠牲者25人すべてと、全壊家屋96戸の大部分は、伊豆半島東部と中央部の崖崩れや山崩れ、地すべりなどによるものであった。また、東海岸を走る伊豆急行電鉄の線路や東伊豆ハイウェーも、各所で発生した崖崩れによって寸断された。伊豆急行は、河津駅の近くで、巨石がトンネルの出口を破壊して線路上に落下したため、それを取り除くために、半年間も不通になったほどである。
 そもそも伊豆半島は、地形が急峻であるうえ、地表近くは、風化の進んだ古い火山の噴出物で占められている所が多い。つまり、自然の状態でも不安定な地形・地質であるため、地震によっても豪雨によっても、斜面崩壊を起こしやすいのである。
 ところがそのような地盤の上に、近年の開発によって新しい道路や鉄道が切り開かれてきた。急斜面に沿って道路や鉄道を新しくつくるときには、道路や鉄道の幅の分だけ平地が必要になる。そのためには、どうしても斜面を削り、さらには傾斜の急な人口斜面をつくることになる。こうした工事によって出現した急斜面は、しばしば安定角をこえた50-60度の傾斜を示すことが多く、それだけ危険を潜在させる結果となる。路線バスが直撃され、三人の死者がでた梨本の崩壊現場でも、道路の幅を広げるために山側の斜面が削りとられ、人工的な急斜面となっていた。そこへ強い地震動が襲い、斜面の上部に堆積していた土砂が崩れ落ちたのである。
 地域開発を優先して、新しい道路や鉄道がつくられたのだが、そのような所に被害が集中した現実を見ると、伊豆大島近海地震による災害は、人災的色彩の濃いものだったといえよう。p.125-6

 今回、高地移転が声高に叫ばれているけど、今度はそれが地盤災害を引き起こす懸念もある。土木ハードだけでは、巨大津波には対処できないし、開発行為は新たな災害の種をまくことを考慮した上での対処が必要だと思う。

 災害のあと、ヘリコプターで現場の上空を飛んだとき、眼下に広がる景観に、ただ息を呑む思いであったことを記憶している。すべてが破壊され、森林も削りとられた伝上川の谷、巨大な岩塊が地表に衝突し、粉々に砕けて引いた白い筋――この世のものとも思われない風景を目前にして、自然の猛威を改めて実感したものである。p.131

 1984年の長野県西部地震御嶽山が大崩落を起こし、岩屑なだれを起こしたときの視察の話。岩屑なだれは空気を媒体とするため地表との摩擦が小さく、高速の流れとなって破壊力が大きいそうだ。そして、成層火山は噴火にしろ、地震にしろ山体崩壊が起きやすいそうだ。
 衛星写真でみると、目立つこと…