木簡学会編『木簡から古代が見える』

木簡から古代がみえる (岩波新書)

木簡から古代がみえる (岩波新書)

 木簡を様々な面から解説した本。最初の全般的な解説に続き、かつての都跡から出土した宮都木簡、地方の官衙で使用された地方木簡、朝鮮半島や中国などの木簡の利用、そして発掘から保存、公開までの流れについて。木簡がどういうものかについて、大まかな見取り図を得ることができる。また、「トピック」として、テーマごとの紹介があるが、現在の沖縄で続く「フーフダ」という木のお札についての話と、木簡がトイレットペーパーのような役割に再利用されたという話が興味深い。木簡が明らかに糞尿溜になっていた場所から出土してて、かつてトイレットペーパーのように使われたと聞くと、こう微妙な気持ちになるな。1000年以上前とは言えねえ。
 木簡が廃棄された文字情報であること。また、遺跡から出土していることが、木簡の情報を豊かにしていることが再三指摘される。廃棄された文書が、保存されてきた公的な文書では明らかにならない情報を残しているし、出土状況からもさまざまな情報を得ることができる。平城京の整地土中から出た和銅三年と書かれた木簡から、平城遷都の時点で大極殿が完成していなかったことが明らかになったことなどはその例だろう。しかし、こうして解説されると、逆に素人がいくつか読んでなんとかなるものではないと痛感するな。


 以下、メモ:

 1969年3月に奈良県教育委員会から刊行された本報告書『藤原宮』には、木簡状加工木片の項がある。それらに墨書はないが、木簡と同様の形状であり、上端・下端ともに鋭角に切断され、気取りの比率や、材質もヒノキで共通している。岸の指示で、上下端の完全な加工木片640点、両側辺の完全な1317点を計測した。その分析は報告書に詳しいが、「文字がなくても、上下の長さから当時の一尺が何センチだったかわかる」と言われたことを鮮明に覚えている。岸の「モノを見る眼」に驚いた。発掘調査で出土した木簡状木片の点数は、出土した木簡総数(2100点余り)の数十倍にも達するが、岸の指示で全て橿考研の収蔵庫に保管してあり、何時でも利用できるようになっている。木簡保存法などの研究に活用していただければ、と考えている。p.10

 で、この何十倍も出てきたのが、便所用の籌木だったと…
 まあ、保存科学とか年代測定とか実験考古学とか、利用法はいろいろありそうだな。消耗しても惜しくないものだし。

書かれた場所から
 次に、木簡の使われ方を分析することから、浮かび上がってくる事実を考えたい。
 確保された貢納物は、どこに集約され、どこで梱包されたのか。伊豆国の荷札木簡を分析すると、この点についても知ることができる。
 古代の地方行政は、国の下に郡が置かれ、郡の下に郷が置かれた。国には中央政府から役人が派遣されるのに対し、郡の役人には地元の有力者が採用される。郷がどの程度の行政的な役割を果たしたのかは、あまり分かっていない。
 まず、荷札の筆跡から、荷札が郷ごとにまとめて書かれていたらしいことが判明している。また、伊豆国の荷札には追記がある(図1)。律令ではカツオの貢納量は重さで規定されている。この規定の重量は、貢納者の住所氏名と共に、最初に木簡に書き込まれる。一方、実際のカツオの大きさには個体差があるから、重量でそろえるためにはカツオの匹数で調整しなければならない。だから、荷物ごとにカツオの数は違ってくる。そこで、実際のカツオの数を記した追記を後から行う訳である。この追記は、郡ごとにまとまってなされたらしいことが判明している。
 現実の荷物がないと、実際にカツオ何匹分が荷物になっているか、知ることができないから、追記は荷物が作られた後のはずだ。また、この追記は、荷造りした後、ひもが掛かる場所にも書き込まれているから、荷札が荷物に括り付けられる前に書き込まれたはずだ。そうすると、追記は、荷造り完了後、荷物に荷札が括り付けられるまでの間に書き込まれたことになる。
 その場所はどこか。郡単位で追記の筆跡に共通性があるというから、郡の役所の可能性が高い。郡の役所で形状の確認がなされ、荷札への確認の書き込みが行われて、荷札は荷物に括り付けられた。貢納体制全体の中で、郡が果たした役割の大きさがみてとれるし、こうした点から考えると、生産体制の整備においても郡が大きな役割を果たした様子が知られるであろう。
 さて、追記が現物の荷物を目の前にして書かれたものであるのに対し、それ以外――貢納者の住所氏名、貢納品名や貢納規定量など――の文言は、何を根拠に書かれたのか。荷札作成時にはまだ荷物はないから、後で追記が必要になる。つまり、荷物とは関係なく、前もって荷札の作成が行われていたことは明白だ。荷札に書かれた文言の特徴を考えると、一つの可能性が浮かび上がってくる。
 それは、帳簿を元にして、機械的に荷札を作成した、という想定だ。古代には、計長や調帳とよばれる帳簿が作成され、人々の住所や名前、貢納すべき品々がリスト化されていた。荷札の記載はこれらの帳簿の記載と非常によく似ている。荷札の記載は、地域や品名・税目によって違いがあるが、帳簿の記載との類似性は荷札全般に共通した特徴ということができる。つまり、荷札は現実の品々や人々とは直接は関係なく、帳簿に基づいて、帳簿を分解するようにして作成された。これらの帳簿は郷ごとに一巻となっているから、巻物ごとに分担すれば、郷単位で筆跡が変わることは自然である。
 つまり、荷札を荷物に装着する作業は、帳簿の分身である荷札が、現実の品々と遭遇し、帳簿上の内容と現実の状況のすりあわせを行う作業だったのだ。p.34-6

 ここの指摘はおもしろい。現実の社会は郡を単位に組織されていたが、荷札を通じて、郷と家の単位と言う制度のフィクションに接続される。江戸時代の石高制や米納制度も、ずいぶんフィクショナルだが、税制度にはそのような性格が強いのだろうか。

 つぎに目を郊外の部署に向けると(表2)、畿内には御田・御薗と称される土地があった。これは『万葉集』などでは田庄と記されるものだ。これらは長屋王の位田・職田といった律令制的給付ではなく、父高市皇子以来の私的な財産として継承されたものである可能性が高い。こうした大土地所有が律令制下でも存続していたことは寺社などの事例にうかがうことができ、律令制下の土地所有・経営のあり方を再検討する材料になる。p.67

 長屋王家木簡から明らかになる長屋王の大土地所有。特に律令制がそうだが、法制度が描くフィクションと社会の実際の状況ってのは、大概乖離しているものだ。そういう意味では、規範的史料ってのは、いまいち信用がならない。
 現代でも、例えば民法などが想定する家族の形と実際の家族の形はずいぶん違うものだし。道交法が速度制限していても、その通りの速度で走っている車は少ない。