平城京に暮らす―天平びとの泣き笑い (歴史文化ライブラリー)
- 作者: 馬場基
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 2010/01/01
- メディア: 単行本
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いろいろと、往時の役人生活が垣間見えておもしろい。
もう、既に位階や役職を箔付けに使って、商売や地元の支配などをメインの活動にしていた人々がいたこと。長屋王などの有力貴族層や官司は、東西市に拠点を置いて、利殖活動を行っていた。長屋王家は炊いたご飯と酒を売却して、稼いでいたらしい。
行基の活動も、このような律令制の枠外の活動によって支えられていた。
あるいは、役所が単純な勤め先なだけではなく、何らかの問題が起こったときに保護を提供する機関でもあった。正倉院文書に残る詫び状からは、そのような書類が作成されたが、最終的に提出せずに済んだことが推測できる、と。
役人たちは、夜明け前に集まり、給食が供された。飯汁副菜くらい。それを準備するための材料請求の木簡が出土している。しかし、具体的なメニューなどはわからない。むしろ、当時の常識的なことほどわからないという。
住居などについては、遺構などから紹介される。貴族の邸宅の位置は意外と分からない。借金の抵当に入って情報が残った中下級の役人の方が分かるというのがおもしろい。この部分については、図が微妙に不親切というか…
衛士や仕丁、奴婢といった下級の労働力として、多数の人々が各地から徴用されてきていた。そして、彼らは、このような奉仕を嫌って、逃亡する人物も多数出た。何度も逃げ出した奴の話とか、配属された先で新たな出会いと別の地方への人の移動といった姿も。
第2部は、お役所勤めの話。政治的な大変動が起きていても、淡々と業務が行われていたり。逆に、政変劇に下級の官人が動員されて、直接巻き込まれる姿。下級官人層には魅力的であった大学、昇進によって役職を確保しようと右往左往する役人たち、写経所の写経生に支給する米には食用と日給的なものの二種類があった話など。
以下、メモ:
写経生たちの場合、副食物の予算がちゃんと別に用意されていることから考えると、後者の見方には若干疑問が生じる。とにかく重要なことは二升の米の中には、そのまま食用に供される分と、それ以外の分が含まれていた、という点である。p.119
日給みたいなものなのかな。持ってかえって食べることもあっただろうし、これを交換に使用することもあっただろうし。この時代の米の貨幣的機能がどの程度のものであったか、気になる。
大和盆地西南部の谷間の三ツ塚古墳群は、六世紀末から実に九世紀後半まで実に約三〇〇年間に渉って、墓が営まれ続けた。この古墳群は大きく三つのエリアからなるが、これは氏族内での使い分けらしい。そして、このエリアの使い分けもまた踏襲され続けた墓地の造営の様子からも、この墓地に葬られた一族が、同族意識を再生産しながら墓地を維持し、あらたな墓を営んでいたと考えられる(小田裕樹「奈良県葛城市三ツ塚古墳群・古墓群の形成過程」『九州と東アジアの考古学』九州大学考古学研究室五十周年記念論文集刊行会、二〇〇八年)。p.164-5
三世紀に渉って維持された墓地か。すごいなあ。そして、9世紀後半に、同族意識を持つ集団が解体したわけか。どういう事情があったのだろうか。