小林茂『外邦図:帝国日本のアジア地図』

外邦図――帝国日本のアジア地図 (中公新書)

外邦図――帝国日本のアジア地図 (中公新書)

 近代日本が、帝国を拡張していく過程で、周辺のアジア地域の地形図・地勢図をどのように作っていったのか。時代を追って、明らかにしている。最終章では、その外邦図が情報源としてどのような価値を持つかを指摘する。
 自前での測量、戦争での鹵獲、その他海外からの入手。それがどのように利用されたか。むしろ自前での測量が比較的少ないのが印象的。植民地として支配下に入れた地域以外は、ほとんど整備できていない印象。たいがい、既成の地図を中心に編集したものが利用されている。航空写真による地図製作能力の展開。重要な資料がアメリカの議会図書館にある状況も印象的。敗戦による資料の押収。結局、日本の近代史、特に第二次世界大戦近辺や軍事に関しては、アメリカの方が調査がはかどるのだろうか。あと、近代のさまざまな戦争で、結局地図の準備が間に合っていなかったのではという感じが。
 全体として、1930年代に入って航空写真の利用が一般化する以前は、平時には秘密裏にコンパスと歩測を利用した測量、戦時には占領地を公然と測量するという感じか。結果として、外邦図の精度の問題が永く付きまとったようだ。
 日露戦争での戦死したロシア士官が持っていた地図を利用した話を含め、日中戦争でも中国製地図を鹵獲、マレー半島ではイギリス製地図と、戦争における地図情報の争奪のあり様も興味深い。
 敗戦時の陸地測量部の内務省への移管や、外邦図の大学への持ち出しについては、菊地正浩『「地圖」が語る日本の歴史:大東亜戦争終結前後の測量・地図史秘話』(ISBN:487015160X)が詳しい。あるいは、今尾恵介『地図で読む戦争の時代:描かれた日本、描かれなかった日本』(ISBN:4560081182)で指摘されていた、大戦中に海外各地に人員が派遣されて、国内の地図改訂もままならなかったって話と考え合わせると興味深い。日本国内の地図製作体制の発展、人材の養成とその移動なんかと照らし合わせて議論すると、さらに興味深いかもと思った。


 以下、メモ:

 こうした懸念は、戦場における兵士たちの服装にまで影響する。『日露戦争の秘密――ロシア側史料で明るみに出た諜報戦の内幕』によれば、「しまいに、日本軍は何も身につけなくなった」という。特に沙河会戦(1904年10月)以後は、全戦闘部隊が肩章を外して、身分を示すものとして残ったのは、「胸の金属製認識票、軍帽、宛名を書いた封筒、銃の名標だけになった」。こうすれば、将校の遺体が容易に識別できず。地図などの重要資料を発見しにくくなるわけである。p.125

 日露戦争時の話。なんか、太平洋戦争時よりも、機密保持に気を使っている印象が。そういえば、南洋で戦死した兵士から集めた日記の類はどこかに保存されているのだろうか。

 口羽は、青島占領を機に入手したドイツ製の山東省の地図、ロシア製の満州の地図に接したうえで、ドイツ製地図が本格的な測量によって作製されていること、また堂々と中国国内で販売されたことを指摘している。さらに測量方法を具体的に述べてはいないが、イギリスは巧妙に秘密測量を行い、アメリカ人が中国で経営する病院・学校・教会は秘密測量の策源地で、常時測量を行っていると記している。これに対し、日本の測量は「コソコソ流儀」で行われており、列強のものより「数等劣って居る」とする。p.189

 このあたり、他の列強はどのような手段をとっていたのだろうか。固定施設があれば、そこから天測を繰り返して緯度経度を得たり、測量の基準点にはできるだろうけど。

 このようにみると、兵要地理調査研究会の業務は学者の戦争協力になる。ただし、連合軍ではもっと早い段階から、多数の地理学者を動員していた。各種の地図の準備、重要な戦場の地形模型の作製、空中写真の解析など、「戦時サービス」として、多様な業務を行い、著名な地理学者も参加した。これと比較すると、日本の地理学者の動員は、あまりに遅いだけでなく規模も小さい。この研究会を組織した渡辺正氏によれば、当時の参謀本部では、学者を動員して何になるかという意見が強かったという。総力戦という観点から学者の動員をみると、連合軍のほうが、はるかに本格的な態勢を作っていたことになる。p.248-9

 まあ、日本の総力戦体制というか、戦争に対する動員の問題点として、近代的な学問を修めた階層の支持を得られなかったというのが致命的な弱点だったように思う。理系分野でも、動員の成果は限定的だし、動員される方も積極的ではなかったように見える。まあ、「学者を動員して何になる」とか言う反知性主義的な態度だからこそ、戦う前から負けているような戦に踏み込めるんだろうけど。

 外邦図に関心のある方はぜひこのホームページ(URLは巻末に掲載)をご覧いただきたいが、中国大陸と朝鮮半島の地図については、まだ公開を開始していない。中国の場合は、外邦図に秘密測量により作られたものが多いこと、南京事件などに際しての押収図を元図にするものが多いこと、さらに中華人民共和国内の地図に関する法規制を考慮してのことである。中華人民共和国では大縮尺の地図(地形図など)は、なお実質的に軍の管理下にあり、市民や学生の自由な使用は許されていない。
 他方、朝鮮半島については、すでに各種の地図のリプリントが刊行されているが、インターネットによる公開については、その政治的・軍事的な状況から、なお慎重論が強い。私たちの間には、これらの地域の外邦図は、現地研究者と合意を作り、現地から発信することが望ましいという意見もあり、関係機関に打診を開始しているが、公開までにはさらに努力が必要である。なお、台湾については、秘図とされていたものも含めて地形図(五万分の一)を公開している。p262-3

 本当に地図の扱いでその国のレベルが知れるな。そういう政治状況や軍事状況、法規制があるからこそ、インターネットによる一般公開の意義があると思うのだが。まあ、大学のサーバがクラッキングの対象になったり、大学関係者が入国禁止にされたり、報復を喰らうのを恐れるのは分かるけど。現地からの発信が望ましいというのは確かにそう思う。