広瀬公已『海神襲来:インド洋大津波・生存者たちの証言』

海神襲来―インド洋大津波・生存者たちの証言

海神襲来―インド洋大津波・生存者たちの証言

 ちょっとへそ曲がりに、東日本大震災の後に、インド洋大津波の本を読んでみる。
 インド洋大津波の当時には、いまいちわからなかったのが、今はNHK名取川河口あたりの空撮画像とオーバーラップする。あれは、肝をつぶすとしか言いようがなかった。
 丹念に現地の人の証言を聞いて、再構成している。津波の発生から、災害のあとの混乱、救援の遅れという状況が、リアリティをもって再現されている。あとがきを読むと、半端なく津波の知識がない人だが、そういう人が現地で混乱しつつ、話を聞いて回ったからこそ、地べたを這うようなリアリティが醸し出されたんだろうな。なまじ知識がある人だと、俯瞰的に物事をまとめて、ここまで迫力はでないと思う。
 あと、東日本大震災津波と、重なるところが多々あるのもなんとも。あとで、天譴論が次々となえられたり、噂が流れまくる状況とか。一方で、行政機構とか、救援のノウハウあたりでは、ずいぶんの差があるなとも。各地で交通が寸断されても、日本ではいろいろと食糧補給なんかが行われたし。衛生問題の話も興味深い。アチェでは、津波による怪我人や避難の過程で怪我した人が、化膿する状況だったそうだ。ただ、日本でも、夏だったらそういう状況はありえたのだろうか。役所が流されて、公文書類の散逸という問題も。あと、アチェ独立運動と国軍の対立が、外国の救援活動を打ち切らせた状況が切ない。


 以下、メモ:

 地震の揺れが長く続いたのは、震源地でプレートが三回にわたって南から順にずれ、そのずれが長時間続いたためだ。震源域の南端は北緯三度十七分五十三秒、東経九五度四六分四四秒付近だったが、ニコバル諸島付近を中心にもう一つの地震が起こった。そして、断層の割れ目は厚紙を引き裂いていくように北に一方向に延びていった。断層は、長さ一〇〇〇キロ、幅一五〇キロ、最大ずれ幅約一四メートルという大きなものだった。一九九三年の北海道南西沖地震の断層は、長さ一〇〇キロ、幅五〇キロ、最大ずれ幅二・八メートルで、これと比較してもいかに巨大なものであったかがわかる。p.39-40

 東日本大震災もそうだが、この規模の地震だと、何度か大規模地震が連鎖するのだな。揺れの持続時間が数分単位になるのも同様だったようだ。

 ハシムの肉眼が脳裏に焼き付けたのは、まだ生きている人々がトタン屋根に切り刻まれながら流されていく映像だった。土石流の通り道となった幅二〇メートルのジャム通りはあたかも怪物のはらわたのようになった。ハシムは震えながら神への祈りを続けたという。p.65

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 安心して暮らせる町づくりができないかぎり、とりあえずは住民の安全を第一に、復興計画を時間をかけて進めなければならない。インドネシア政府はそう考えていた。
 ところが住民たちはそうした政府の考えとは正反対の行動をとりはじめた。
 人々は何もなくなった海岸に、廃材を集めて家を建てはじめたのである。
 仮設住宅を使う人も、全体からすると一部に限られた。仮設住宅は、海から一〇キロも離れた山の中にあり、漁をするにはあまりに不便だった。海岸線で暮らしていた住民たちは、先祖の墓もあり漁業に出かけることもできる自分たちのふるさとに戻って暮らすことを選んだ。
 政府もこれを黙認せざるを得なかった。住民自身が再び津波が襲ってきた場合のリスクを覚悟で戻るのであれば、それを止めることはできない。津波は来るかもしれないが、逆にもう来ないかもしれないからだ。p.236

 高地移転が進まない理由。まあ、日本だと、少し離れたところから軽トラで通うこともできるかもしれないが、アチェではそうもいかないだろうな。明治・昭和の三陸津波の後に、同じ場所に集落が復旧した理由も同様なのだろう。