福野礼一郎『クルマはかくして作られる:いかにして自動車の部品は設計され生産されているのか』

 これはおもしろい。自動車の内装材を中心に扱っているが、それが逆に新鮮な感じ。
 自動車の部品がどのように生産されているのかを取材して回った雑誌連載を一つにまとめたもの。この本では、内装に使われる部品を中心に取りあげ、「外堀を埋める」形でまとめている。続巻に『超・クルマはかくして作られる』があり、こちらは車の本体を扱っているようだが、熊本市内の図書館には所蔵がないんだよな。古本で買うしかないようだ。
 取り上げられている内容を列挙すると、ウッドパネル、皮革、インストルメントパネル、ホイールなどのアルミ部品、シート等の内装材、ガラス、樹脂部品とその金型、エアバルブ、塗料、エアコン、布、内装表面のシボ加工を金型に施すエッチング加工、キー、配線のワイヤーハーネス、ウェザーストリップ、シートベルトとエアバッグ。基幹部分としては、トヨタセンチュリーの組立て工場や製鉄、ボディーのプレス加工など。自動車といえば鉄鋼って感じだけど、想像以上にいろいろな素材が使用されているのだなと。
 印象的なのは最初の方のウッドパネルやシート用の皮革、最後の方の製鉄所あたりかな。製鉄所は著者が非常に楽しそうだったのが印象的。あとは皮革生産が化学工業的だなとか、廃液の処理が大変そうだとか、最終的に樹脂コーティングしてしまうのがもったいない感じとか。あとはウォールナットの話も興味深い。あと、プラスチックを使った部品に関しては、プラモの製作工程にいささかなりとも知識があれば、共通するものが多くておもしろいと思う。皮革に関しては、内澤旬子の『世界屠畜紀行』asin:4759251332でもっと小規模な生産の模様をレポートしているが、大きくなると設備もでかくなるんだな。
 読むのに時間をかけ過ぎてしまったので、あちこち忘れかけているが、何度も読み返す価値がある本だと思う。自分で買うかね。


 以下、メモ:

 材料を混ぜ合わせたもの(バッチ:Batch)を見せていただいた。実にどうということのないものである。砂場の砂に細かく割れたガラスをこれでもかと混ぜれば、ほとんどそれだ。1600℃の炉にこれを次々と投入してがんがん溶かすと、不純物が沈んで1300℃の溶けたガラスの上澄みができるという。上澄みを次の工程、長さ50mほどの四角いトンネルの入り口に静かに注ぎ出す。
 トンネルのことをフロートバスという。内部は電熱され、入口の温度は1000℃近い。フロート(浮かす)バス(風呂)といっても中になみなみと入っているのは水ではなく、完全に溶けたスズ(Sn)である。Snの融点はたったの232℃だから、1000℃の風呂の中ではしゃぶしゃぶである。ここにゆっくり溶けたガラスを注いでいくと、比重2.48のガラスは比重7.3(20℃で)のSnの上にぷっかり浮く。浮いて表面張力によって平らに広がる。ガラスとSnの界面張力によってガラスの下面は真っ平らになり、ガラスの上面はガラス自身の表面張力によってやはり真っ平らになる。
 これをそのまま冷やしていけば、ピカピカのつるつるのキズひとつない、透き通ったあの板ガラスの出来上がりだという。徐冷室で少しずつ冷却されて流れ出てきたのは間違いなくそういうものであった。バッチの中に清澄・泡切剤として投入した硫酸ナトリウム(無水芒硝 Na2So4)の働きで泡ひとつなく、酸化コバルトによる電子遷移効果によってグリーンに着色されている。これはエメラルドがグリーンに見えたり(クロームまたはバナジウム入り)サファイアがブルーに見えたり(鉄やチタン入り)するのとまったく同じ理屈である。
 流れ出てくる板ガラスにNC装置がダイヤモンド(もちろん人造)カッターでキズをつける。これを下からちょっと持ち上げるとバシッとものの見事に一直線に割れる。こうして大きな一枚のガラス板ができる。
「ということは、炉から出てここまでずっと切れ目なく繋がっているわけですか」
「そうです」
「……そういえばガラスの厚みというのは一体どうやって調整するんでしょう」
「放っとけば表面張力のバランスで約5-6mmの板厚のガラスになります。これを出口から引っ張れば薄いガラスになり、反対にせき止めるようにすれば厚いガラスになります」
「うわーなるほど。いや一体誰がこんな……」
 残念ながらそれは日本人ではない。英ビルキントン社の社主、サー・ビルキントンである。夕食後の皿洗いをしているときに、皿の上の水に油が浮くのを見ているうちに思いついたのだという。1952年の発明である。それまでの板ガラスはローラーを使って溶けたガラスを垂直に引き上げ、伸ばしながら冷やすという方法で作っていた。どうしてもローラーの縦スジが表面に残った(昔の窓ガラス)。p.54

 現在はこういう方法で板ガラスを生産しているのだな。円筒の吹きガラスを切って作っていた時代までの知識しかなかった(産業革命前)。

 私も経験したが、実際金型作りや射出成型ほど外の人間から何をやっているのか窺い知れないものはなく、誤解をおそれずあえて言うなら何をされても分からないというのが現状だ。たとえば前項紹介した金型作りだが、あるひとつの成型部品を作るための金型の設計というのは無数に存在する。小島プレスではCADを駆使してノウハウを設計に活かしていたが、カタチさえできればいいならまったく安く簡単にインチキな金型だっていくらでも作れるのである。
 見た目は堂々立派であり、1000万円と請求されればそんなもんかと素人は思う。ところが成形してみるとヒケ(肉ヤセ)は出るしソリは出るし表面のツヤはボケてるし生産するうちボコボコ型は壊れるなどと、そういうことになるのである。文句をつけても「こういうもんだ」と言われればそれまでだ。射出成形作業も同じだ。成型機が自動成形するのだから手など抜きたくても抜きようがないように素人には思えるがとんでもない。ペレット代をケチるために製品からもぎって外したランナーをばんばか成型機に放り込む。成形時間を短縮するために金型内に製品を置いておく保持時間を短くして型を開けてしまう。やろうと思えば何だってできる。当然製品には前記と同じような欠点が出るが「こんなもんです」でおしまいである。輸入車の内装のプラスチック部品なんか見ていると「うーむあっちでもやってるな」「まんまとやられてるな」の類がそこここに見受けられる。p.72

 プラモデルメーカーの動きもこういうのと関係あるんだろう。タミヤは金型を内製しているそうだが、こういうことをされたんだろうな。バンダイも内製のようだし、ハセガワは信頼できるメーカーを作っているようだし、どこも苦労したんだろうな。

 CRTディスプレイにお絵かきをすれば、電子ジャガードはもちろんそいつをたちどころに織物に仕立ててくれるだろう。だがそのようにしてみたところで、古代の絹織物、名物裂やフランス裂の金襴・緞子のあの図柄の風格と完成度に匹敵することが可能だとは思えない。なぜならそれは古代の絹織物の図柄というものが美術的であると同時にひとつの様式でもあるからだ。歴史の長い時間をかけて練り込まれ完成されていった美術や技術のパターン、これが様式というものだが、そこには何百何千という人間の工夫と努力、挫折と試行錯誤が秘められていて、後世そこに接近してくる類似の存在を寄せ付けない。ひとりの人間がいかに努力と熱意を傾注しアイデアを巡らせてみたところで決して様式を凌駕することができないのは、様式が人知の結果だからである。例えばニューヨーク・アールデコは古代バビロニアのジックラッドの様式から生れた。インテリアデコールのシノワズリとは中国の古い家具様式に着想を得たものである。自身の不遜を捨て様式に学ぶということは、ヒトの知の力を己の内にすることだ。「温故知新」の精神というのはそのことだろう。p.101

 現代美術なんかがアレなのは、このあたりの「不遜」さもあるんだろうな。

「太い電線というのは抵抗が低いのと同時にとてつもない大電流を流すことができちゃう電線でもあります。細い線は良い子です。ショートしたらそこだけボッと燃えて切れるから。太い線は怖いですよ。導火線みたいなもんですからね」
 車両火災を起こしたクルマを検分してみると、電気系が原因だったもののほとんどすべてがこうした後付け配線に起因しているのだという。なるべきワイアハーネスに触らないでほしいというのは実際設計に携わっている人間の切なる願いなのだろう。私の体験的認識ともそれは完全に一致する。p.122-3

 後付けで配線をいじると危険だという話。