ハーレクイン対フェミニズム

www.lang.nagoya-u.ac.jp
 うーん、こういう流行っている娯楽小説を何らかの社会情勢、ここではフェミニズムと絡めて読み解く手法がどこまで有効なのか疑問。そもそも、その「ジャンル」の本を浴びるように読みまくっている人と、外部で批評しようとする人では、そのジャンルに対するセンスが全然違うのではなかろうか。むしろ、ある物語のジャンルの「型」の中で、どのように違いを作るか。外野からみれば、瑣末な違いにしか見えないその違いが大事なのではなかろうか。ハーレクイン・ロマンスでも、無垢なヒロインと金と権力をもつ「アルファ・マン」であるヒーローと結婚して身を任せるというのは、一見、封建的に見える。しかし、読者は、実際には結婚をゴールとする、恋愛ゲームのバリアントを楽しんでいるのではないだろうか。もちろん、それだけの規模の流行だけに、そこに女性に選好される特性というのはあるのだろうけど。少なくとも、フェミニズムで読み解くことに、あまり有効性はないように思えるが。研究史も、著者の感覚も、なんかピントを外している感が。
 そもそも、結婚の後なんか描いたら、全然ロマンスにならないだろう。そこに至るまでの過程だけを切り取ったものがロマンスなわけで、別に現実のグダグダしたところは見たくもないし、見せないから娯楽小説になるんじゃなかろうか。エロゲなんかは、ある意味、この全く逆の方向で、似たような構造だしな。
 しかし、「最も自己主張しない娘がヒーローの愛を勝ち得る」っていう構造は、アメリカ社会の自己主張至上主義な感じなイメージと一致しないな。実はアメリカ人も自己主張しまくるってのは好きではないのか。なんなんだろうな。あと、「逃避文学」というレッテルも、どこまで有効なんだろうか。「逃避」じゃない文学なんてあるのかね。
 ダフネ・ワトソンの著書の紹介で、「フォーミュラ・ロマンスの文学作品としてのレベルの低さ」という一節があるが、この「文学作品のレベル」ってのは、どういう基準なんだろうな。娯楽作品として享受する場合、適度な「レベルの低さ」というのは必須の条件だと思うが。批評家好みの前衛的な構成だの、社会の矛盾だの、鋭い感情のやり取りとか、娯楽で何らかの作品を享受する時には、むしろ主にだと思うのだが。ラノベや少女漫画でも、娯楽作品の批評にはこういう非難が付きまとうけど、この種の批判はむしろ批判する側の傲岸さとか、センスのなさを露呈しているだけなんじゃなかろうか。いつも重いものばかり食いたいってわけじゃなかろう。
 あと、マイルズのハーレクイン・ロマンスの関係が母子関係の暗喩だっていう見方はおもしろいな。

無論, 細かい点では個々の作家の創意工夫が加わるとはいえ, ハーレクイン・ロマンスというのは, 概ねどれも皆今述べたようなストーリー展開をするのであり, その意味で文字通り 「型にはまったロマンス (=フォーミュラ・ロマンス)」 であるわけだが, その 「型にはまった」 度合いが桁外れと言うべきか, ハーレクイン・ロマンスという商標のついたロマンスがどれを読んでも皆同じであることは, 驚きを越えてほとんど感動的ですらある。

 少なくとも、こういう感想を抱いている時点で、ハーレクイン・ロマンスを楽しんでいる人がなにを楽しんでいるかに肉薄できそうにない。