稲泉連『ドキュメント豪雨災害:そのとき人は何を見るか』

 紀伊半島に大きな被害をもたらした、2011年の台風12号の時、当事者がどう感じ、動いたのかのルポ。そして、そこから東京の大規模水害の危険性の指摘。
 3日間も台風が停滞すること自体が異例だな。そして、そのような災害の前例があることも恐ろしい。100年というのは、人間の寿命よりは長いが、頻度としては割りと高め。人が異常を感知した時には、もう逃げる機会を逸していることが多い。もはや地域のなかで安全な場所がわからなくなっている。交通や通信が遮断されて、状況もつかめなくなる。
 あとは、災害に対する対応や復興に関して、市町村レベルの自治体は効率的に対応できない状況。専門的なポストと組織を用意していないと、組織間の調整や災害の知識の不足で混乱をきたす可能性が高い。阪神大震災の時から、日本版FEMAみたいな組織が必要と言われながら、結局うやむやになっているところがなあ。災害国なのに、専門的組織がないというのも異様な話ではある。ここ20年ぐらいで何度も出番がありそうな災害があったんだから、コストパフォーマンスの点でも、損にはならないだろうし。那智勝浦町の井関地区の区長が、机を置いて「現地対策本部」と書いた紙を下げたら、そこが情報や人が集まる軸になって、共同作業が円滑になったというエピソードも興味深い。被災地では、情報が入らなくなって、行動がしにくくなるから、こういうハブができるだけでずいぶん違うのだろうな。あと、地場の土建業者が、災害への対策の時に重要な役割を果たすこと。
 災害対策を考える上で、いろいろと示唆に富む本。


 以下、メモ:

 雨による災害は一般的に、浸水や道路冠水から道路の法面崩壊、川の氾濫を経て最後に土砂災害が起こる。川の増水や道路の崩壊といった「経過の見える災害」の末に、大規模な土砂崩壊という「経過の見えない災害」が起こるのだ。そこに水害の恐ろしさがある。十津川村のような小さな自治体にとって、すでに土砂災害が発生しているにもかかわらず雨が降り続くという事態は、その意味で行政機能の麻痺を予感させる恐怖そのものだといえた。
「十津川は地形的に避難中に被害に遭う可能性もあるので、安易に避難指示も出せなくなってしまう。一つ避難指示を間違うと、一人、二人が亡くなるという事態ではすまないかもかもしれません。最終決断は村長が下しますが、その判断材料を出すのは自分たちですから、胸の中は不安だらけでした。いつ雨が止むんやろう、と思ってもどうすることもできない。山間地での避難の難しさを痛感しました」p.17-8

 避難勧告や指示の発令のタイミングが難しいというのは、以前からいわれている話だな。市町村単位では、そんなに頻繁に大災害が起きるわけでなし。タイミングを測る経験も積めないだろうし。

 そんななか、私には印象に残っている言葉があった。それは現場で防災対応に当っていた白川出張所の職員の語った次のような光景だった。
「一二日の朝、白川では堤防すれすれまで水位が上がっていました、そうした状況の川というのは、水流の関係で川の真ん中が盛り上がって見えるんです」
 その頃、すでに市内では雨が止んでいたが、上流から流れてくる水はまだ減っておらず、水位は少しずつ上昇していた。
「ところが熊本市街地はちょうど通勤のピークを迎えていて、道は車で渋滞しているんです。堤防があるので川は見えません。だから、多くの人たちが橋を渡るときになって初めて、白川の様子に気付いて驚いている。その光景を見ながら、あの雲がもう少し南に移動していたら、どんなことが起こっていたか――と恐ろしくなりました」
 都市に暮していると、水害に対する意識はどうしても弱くなりがちだ。しかし急峻な山地とそれを流れる川、その下流域の扇状地に都市が築かれている日本列島は、豪雨による災害と切っても切れない関係にある。彼の見た光景が表す通り、水害は都市住民にとっても決して他人ごとではない。p.129-30

 2012年の熊本県の水害の際の話。つーか、そんな危険なことになっていたのか。新屋敷あたりで渋滞中に、濁流にあったら、普通に死ぬな。白川の橋を全部通行止めにしておけばよかったんじゃね。市街中心部では、白川は見えないから、そういうことも起きるんだろうな。

 一九七一年九月五日、旧江戸川と中川を結ぶ運河・新川の「新川西水門」が、誤操作によって満潮時に開けられてしまうという出来事があった。担当者はすぐに異常に気付いて門を閉めたが、水門は約二五分にわてって開いたままの状態だった。このときの時刻が満潮時と重なったため、水門からあふれ出た水は堤防を越えて住宅地に流れ込み、床上浸水一二〇戸、床下浸水六〇〇戸という被害が出た。p.134

 東京東部のゼロメートル地帯の話。水門で守ってないと、沈むのか。怖いな。

「災害は社会を色濃く反映する鏡。その地域や都市の開発の過程で、水田を宅地化していれば貯水池が減ってリスクが想定するより上がるし、これまで人が住んでいなかった場所に工場ができれば、それだけ災害の様相も変化する。同じように生活のあり方が変化すれば、人々の避難行動も変化していくわけです。だからこそ、あらゆる都市づくりではその計画段階で水害がどのように起こるかを考慮し、対策を打っていかなければならないはずなのですが、ほとんどそれを考えてこなかったのが日本の都市の一つの現実だと私は思います」
 その背景の一つに災害調査というものが「空から調べるものばかりであること」もあるのではないか、とする高橋氏の指摘は重要だろう。
    (中略)
 しかし、「災害というものは本来、被災した側から調べるべきもの」と彼は言う。犠牲者がいれば、なぜその人は被災したのか。高齢者や障害者といった災害弱者が犠牲になったのだとすれば、なぜ彼らはそこに残されることになったのか――。有用な防災対策を講じるためには、人的被害があった場所から遡っていく調査こそが必要とされるのだ、と。
「つまり役所や学者が行う調査の多くは河川水理学、河川水文学の調査にすぎないところがあるんです。雨の量や川の流量ばかりを気にして、被害を受けた地面ではなく空から災害を調べていくんですね。そうした調べ方に偏ってしまうと、豪雨の激しさだけが災害の原因とされてしまいがちです。この雨の降り方は二〇〇年に一度だった、一〇〇〇年に一度だった、という話になって、なんとなくやむを得ない災害だった、仕方がなかったという雰囲気が形成されていってしまう。対応する行政はそう思いたいだろうけれど、社会現象として災害を理解すれば全くその見え方は変わってくるのです」p.142-3

 「災害」というのが、「社会現象」であるというのは、災害研究の基礎の基礎だと思っていたのだが。