宮崎揚弘『函館の大火:昭和九年の都市災害』

函館の大火: 昭和九年の都市災害

函館の大火: 昭和九年の都市災害

 タイトルの通り、昭和9年に発生した、函館の大火を、その前の都市の状況、大火の進行、災害後の復興に分けて描く。昨年末には、糸魚川で大火が発生し、現在の都市でも大火と無縁でないことが明らかになったわけで、非常に時宜を得た本という感じがする。そもそも、熊本では冬場の強風というのが基本的にないから、北日本の冬場の大火というのがわからないところがあるな。強風が吹いている時は、だいたい、雨も降っているだろう的な。
 函館に土地勘がない人間からすると、略地図があると便利だったなと。町名や学校、公共施設の地図があれば、逃げ惑う人びとの動きが、一層分かりやすかったのではなかろうか。ヤフーの地図を見ながら読んだけど、町名が分からなくて、苦労した。マピオンのなら、町名表示が鮮明だったから、そっちを見ればよかったか。
 学校の文集や生存者からの聞き取りで、避難者の動きを再現しているところが、興味深い。風向きが南南西から西に変化し、炎の流れが変化する中で、追い詰められた人々がいたこと。木造の橋が炎で倒壊して、多数の犠牲者を出した状況。函館市内から遠くは下北半島まで、大火災を目撃した人々など。83年前の災害だから、多くが90歳を超えている。17歳以上の人は100歳超えか。当時15歳超えの人が18人ほど居て、最高齢は当時20歳の人と。


 第一部は函館という都市の概要。基本的には、市史なんかに載っていそうな記述。水産業と商業が主産業、人口が伸び悩んでいた時代、市の財政状況が悪かった状況など。


 第二部が本編。消防力の増強の歴史を概観したあと、当日の状況を。
 そもそも、函館は火災が多い都市だったと。2年に一度程度、大規模な火災が発生していたこと。それに対し、消防力の近代化を進め、火災報知機やポンプ消防車の導入が行われていた。また、市民にも、防災の意識が浸透し、当日、強風の中で多くの人がストーブの火を消すなどの行動を行っていた。
 第5章が、火災当日。爆弾低気圧で終日強風が吹いていた。これによって、電線が切れて、通信や電気などのインフラは機能しなくなりつつあった。火元の家は、屋根を飛ばされ、囲炉裏の燃え残りに新聞紙が引火。これが、強風で吹き飛ばされ、燃え広がる。火元となった住吉町は、都市のはずれの貧民街で、水道の水圧が弱い、風や火災に弱い安普請の建物という条件が、初期消火を困難にした。
 初期消火に失敗した後、南南西の風で北に燃え広がったあと、東に向かって、新興市街地を嘗め尽くしていくことになる。消防は、急激に広がる火に巻かれ、最終的には特定の地点の防火を行うに留まった。
 また、風の向きが変化したため、函館市南東の大森海岸や砂山に避難した人々は、陸上からは炎、海上は強風による高波の両方に追い詰められた。冷たい海水に浸かり、強風で体力を奪われ、多くの人が力尽きた。函館の東を画す亀田川にかかる橋は、多くが木造で最終的に炎上倒壊。避難民が集中し、多くの死者を出すことになった。焼死よりも、溺死や凍死が、死因で目立つ。やはり、早く動き出した人が、安全に脱出できているのだな。あと、多くの人が集中するボトルネックで、自動車はむしろ逃げ遅れの要因になる。
 周辺の農村部や下北半島からの、火災の目撃証言。あるいは、函館市役所をはじめ、行政機関があまり避難誘導で活躍していない。火の粉がずいぶん遠く飛んでいる。避難者の収容や村内の米を購入して炊き出しとか、湯の川村の対応の機敏さが印象的だな。函館市内の避難者が、情報もなしに、右往左往している状況と比べて。


 第二部は、災害後。被災者の収容や負傷者の治療など。一方で、国・道・市・軍などの機関が、相互にバラバラに救援活動を行い、調整を欠いていた問題が指摘される。庁舎焼失などで、身動きが取りにくくなっていたのはわかるが、初動における函館市の影の薄さは気になるな。
 火事場泥棒の頻発や疫病の流行、物価に関しては函館湾岸の倉庫が焼けなかったので、生活物資は意外と高騰していない。しかし、不動産では、いろいろとあった模様。あとは、大量の避難民が市街に流出した状況。「火災に強い都市」を目指しての区画整理事業。意外と抵抗がなかったようだけど、住民はどう考えていたのだろうか。
 ラストは、大火の記憶を残そうとする様々な媒体。学校を中心に、文集が作られている。文学作品や商家の火事見舞い記録、表彰、芸能、消防訓練など。
 火災当日が、証言で臨場感があったのに比べると、ちょっと物足りないかな。現代の災害復興では、個人の復興が問題になっているが、そのあたりは、戦前の大災害ではどのように対応されたのだろうか。証言した人々は、当時子供で、復興には直接携わっていない。また、現地に住み続けているということは、復興に「成功」した人々とも言えそう。復興できなくて、どこかに流れていった人とかも、多かったのだろうな。そういう人々にアプローチする方法はあるのだろうか。


 以下、メモ:

 かくて、予防・減災策は制度から消火設備に至るまで広範囲に渡って新設と改良がなされたが、それでもまだ充分ではなかった。実際には、火災は多数にのぼり、大規模化していたのである。それは一地方都市としては異常とも言える事態であった。たとえば、明治二(一八六九)年から昭和九(一九三四)年まで六六年間に、一〇〇戸以上を焼失した火災は二六件生じている。その中、一〇〇〇戸以上を焼失した火災は一〇件である。出火町名を見ると、弁天町、?澗町、豊川町……等は二回だが、低所得者の多く住む、狭い小さな住宅の多い東川町に至っては四回の多きに及んでいた。これでは函館に永年住み続けると何度も焼けだされることになる。二六件の火災の中で、明治四〇(一九〇七)年の大火、大正一〇(一九二一)年の大火、昭和九(一九三四)の大火を函館の三大大火と言う。p.57

 二年に一度程度の頻度で、大規模な火災が発生か。こうやって、火災が頻発すると、家が安普請になって言って、ますます火災に脆弱になるみたいな悪循環がありそう。

 しかし、烈風吹きすさび、トタン板や亜鉛引鉄板が飛び交い、無数の火の粉が降りそそぎ、倒壊家屋が続出し、濃煙のたちこめる状況では、消防車を後退させ再配置するということは容易ではなった。やっとT字路に第二次防御線を敷き、消火活動に入った一九時三〇分頃には、火勢はすでに防御線を越え、消防隊を包囲していた。そのため、組頭の命令で、設定間もない第二次防御線も放棄することになった。そうなると、敷設間もないホースを再び回収して持って行かねばならない。それは容易なことではなかった。今後、消火活動と移動にはホースの回収問題がつきまとうことになった。p.79

 消防車の移動には、ホースの回収がネックと。他の大火や現在の消防では、どういう風に対応しているのだろうな。惜しげもなく捨てていけるような潤沢な予備は、今でもないだろうし。
 糸魚川の大火やここ数日の東北の山火事を見ていると、ある程度以上の規模、強風下での消火活動は、現在でも限界があるようだけど。