塚田孝編『シリーズ近世の身分的周縁3:職人・親方・仲間』

職人・親方・仲間 (シリーズ近世の身分的周縁)

職人・親方・仲間 (シリーズ近世の身分的周縁)

 なんか、微妙に問題関心がねじれているような気がするが。「親方」「生産の組織者」といった視点からの論考が中心になっている。結果として、芸能のほうに入るべきではなかったかと思われる相撲年寄が入っていたりする。武家奉公人の中間も、微妙に浮いている感が。最初の解説で述べられていた「日用」層の問題が、結局収録された論文を通じて、迫れていないのも欠点かな。「日用」層に関しては、都市下層民を対象にした独自の巻を立てるべきだったのではなかろうか。
 収録されている論文は、近江国の辻村鋳物師、関西・木曾・青森の杣工の比較、東北の金堀りの仲間集団のあり方、安房国仁右衛門島に代々居住した浦請負人仁右衛門家の漁業経営、萩藩の武家奉公人中間の階層分化、相撲渡世集団とその地域との関係、大坂の四ヶ所の垣外の非人たちの由緒形成について。


 辻村の鋳物師が、各地に分家による出店を出し、ネットワークを広げつつ、本拠の辻村の本百姓株を維持し、婚姻関係を結び、真継家配下へ入る勧誘などの大きな問題に対しては、集合して協議を行うなど実質的な関係を維持していたこと。これによって、塩分の多い砂鉄の利用技術などの、さまざまな技術も融通された。
 また、真継家の支配の主張に対しては、最初拒否し、後に紛争を有利に運ぶために配下に入るなど戦略的に利用されたこと。真継家の支配は必ずしも、実質を伴ったものではなかったことが指摘される。
 辻村鋳物師の分家ネットワークが近江商人の店舗網のようなネットワークを構成したことが指摘される。あと、この真継家の支配の試みは、他の巻で展開された陰陽師念仏宗などの支配集団の拡大の試みと比較することができるように思う。


 続いては、木材の伐り出しに従事する杣について。上方、木曾、津軽のあり方が比較される。上方では、統一政権の作事に動員する制度として、杣職分が身分とされた。しかし、初期の大建設時代が終わると、木材資源の枯渇もあって、杣職分は空洞化していくことになる。
 それに対し、木曾や津軽では、杣組は労働力編成の一つであったこと。一方で、伐採と運び出しが同時並行に行われた木曾では、運び出し専門の日用が独自の専門として分化し、木道や堰を作る技能を蓄えた。逆に津軽では、伐採後、冬場に橇を利用して運び出すため、杣が堰などの土木工事の技能を保持し、人夫は低熟練の肉体労働を主に担うようになった。このような地域による編成の多様性が興味深い。
 あと、木曾の杣が、上方杣との接触によって技術を蓄えたとするが、この間には上方杣の移住のような、人の移動もともなったのではなかろうか。


 三番目は金銀銅山で働く金掘りたちについて。東北の鉱山の史料を元に、労働力編成や紛争によって浮き彫りにされる仲間組織を明らかにする。鉱山を経営する山師、その下で間歩を経営する金名子、そして実際に採鉱を担う堀大工とその補助の堀子という関係で組織されたこと。近世中盤以降は、鉱脈の枯渇もあって金名子は零細な家族経営へと変化したことなどが指摘される。
 また、鉱山は、山法が施行される独自の法領域であり、処罰などは山内で行われたこと。堀大工は独自の仲間組織を持ち、それは近代の友子組織に近いものであったこと。流動を前提とした加入のしきたりや、鉱山間の紛争では同じ藩領の鉱山の堀大工が結束して制裁を行うなどのネットワークが存在したことなどが指摘される。


 第四は、仁右衛門島の浦請負人仁右衛門家を題材に、浦請負人という運上の上納を請け負う替わりに、漁場に特権を持つ存在の実態を明らかにしようとしている。仁右衛門家は、複数の漁船を所持し、サンマ網や八手網漁を経営し、また延縄漁や鰹釣り漁、鮑漁などを経営した。これらの漁業や海産物の加工の高度な部分に関して、自家では技術を持たず、周辺の漁村から季節ごとに雇い入れることで、行われていた。
 また、延縄漁は新技術で、これに労働力を奪われたことから、漁村の「網仲間」から排除されたこと。その結果、延縄船は、外房へ進出した状況が指摘される。


 第五は、萩藩の武家奉公人である中間に関して。一部の中間が、行政を担う役所の手子の職を独占し、財産の集積を進めたこと。一方で、その他の中間は、地位が株化し、実際の職務には代理人が派遣されるようになった状況が指摘される。肥後藩では、地方の有力者を武家化し、手永役人にすることで地方行政をまかなったが、萩藩では、武家奉公人が地方行政を担うようになったという違いが興味深い。
 一方で、このような手子の独占が、地下の社会のどのような要請によって進んだのか。いくら、独占を狙っても、地域社会側から拒否されたら、地位を維持できないわけで。また、株となった中間の地位を新たに購入したのは誰かというのも、気になる。こういうのは藩政文書では、出てこない情報かな。


 第六は、江戸の相撲年寄と相撲渡世集団。幕府の関東風俗統制の一環として、相撲渡世集団の承諾を受けずに、素人相撲で木戸銭を取ることを禁止。これによって、地方での興行の独占が可能になった。地方で相撲興行を行うために、地元の世話人になる人物を弟子として、ネットワークを拡大していくことになる。また、相撲取りが、大名抱えの場合は武士、そのほかは浪人扱いという、身分的な処理も興味深い。


 最後は、大坂の四箇所の垣外に居住する長吏の形成や由緒。戦国末期に、各地から移住してきたもので形成され、時代をさかのぼるものではないこと。しかし、聖徳太子の事跡と悲田院を取り込んで由緒としたこと。また、えた身分の役人村からの支配を免れるために、由緒を元に四天王寺支配下にあることを主張。しかし、それ以前には、四天王寺と支配をめぐって抵抗していた状況や、その後も四天王寺の支配は限定的なものであったことが指摘される。


 以下、メモ:

 ところが、十五世紀になると縦挽鋸であるオガ(大鋸)が使われるようになり、製材に大変革をもたらした(松村貞次郎‐一九七三年)。オガによって木目とは無関係に板・角材を作ることができ、松や欅のように縦に打ち割れない木を利用できるようになり、大鋸引や大鋸と呼ばれる製材専門の職人が生れた。また、ガガリと呼ばれたオガより小さい縦挽鋸で小材を挽く木挽(木引、小引)と呼ばれる職人も現われた。なお、十六世紀末ごろになると前挽オガが登場し、オガはだんだん使われなくなっていった。また、製材職人は大鋸と木挽を合わせて、たんに木挽と呼ばれるようになった。p.49

 つーことは、中世までは、限られた森林資源しか利用できなかったということか。

 ただし本稿で明らかにしたように、水主の移動範囲は安房国内と上総国の南岸にかぎられ、九十九里地引網漁に従事した水主などの出身地とは重ならない。九十九里地引網漁は多くの労働者を吸引し、またその出身地は周辺の海付村から後背農村にまで広がっていたが、八手網・サンマ網漁を中心とする安房・上総南岸地域との交流はなかったのである。九十九里地引網漁と八手網・サンマ網漁とには、おそらく漁業技術上の差が存在し、それゆえに両者にはそれぞれ、相異なる労働力供給圏ともいえる領域が形成されたのではないかと推測される。p.150-1

 漁業技術の境界が、労働供給の境界をなしたか。