福留真紀『将軍と側近:室鳩巣の手紙を読む』

将軍と側近 (新潮新書)

将軍と側近 (新潮新書)

 吉宗のアドバイザー的な立場にあった儒学者、室鳩巣が門弟に送った手紙から、家宣、家継、吉宗の時代の幕府中枢部の政治動向を炙り出す。もともと老中は将軍の側近の立場から政務を総括していたが、綱吉以降、外から新たに将軍が入るようになり、将軍と老中以下幕閣との距離が離れ、側用人などの将軍側近の役割が大きくなる。
 本書の主人公、室鳩巣は、家宣・家継時代には、将軍側近として重要な役割を果たした儒学者新井白石と親交を持ち、吉宗の時代にはアドバイザーとして将軍の政策策定の相談を受ける立場にあった。このことから、将軍周辺の政治的力関係の変化を見ることができる。家宣の儒教的理念に基づく政治では、側近間部詮房儒学者新井白石と将軍の相談から政治方針が決められ、老中以下の担当者は、その実行のみを担当する、典型的な側近政治が行なわれた。家宣死後、幼少の将軍家継の時代には、前代から継続して間部・新井が、将軍側近に仕えるが、幼君では権威が足りず、幕閣の巻き返しを受けることになる。旗本にとっては、譜代の家臣という自負もあるだろうしな。長く続けば、老中の力が増して、早い段階で幕府は限界を迎えていた可能性があるな。
 家継は、四歳で将軍になり、8歳で死去。そのあとを紀州藩の吉宗が継承する。もともと三男であったこともあるのか、吉宗は歴代の将軍と比べて、荘重さに欠けるというか、フットワークが軽いという特色があった。また、世情に通じていたためか、単純に老中や側近からの情報を受けることなく、直接担当者を呼び出して話を聞くようになり、将軍の持つ情報は飛躍的に増えることになった。室鳩巣に対しても、吉宗が主体的に相談する内容を選んでいたようで、特定の分野以外のことは相談に与らなかったようだ。このあたりの、吉宗の人の使い方は興味深い。単純な側近政治とも違うカラーを見せるようになる。
 やはり、「側近」という存在が、その主の権威を背景にしてしか力を振るえない姿が見えてくる。一方で、情報源が新井白石・室鳩巣に限られているので、対抗的な存在である老中たちが、どのような考えに基づいて行動していたのかは見えにくい。他の史料とあわせれば、もう少し立体的な叙述になりえたのではないだろうか。


 以下、メモ:

 さて本書では、将軍との人間関係を基盤とし、将軍が変われば政治の表舞台を去るという性質を持つ「将軍側近」と、政権が変わろうとも、幕府官僚として役職のトップに居続ける「老中」とのせめぎ合いがポイントとなる。江戸時代の官僚機構の成立過程を「人」から「職」へと表現することがあるが(藤井譲治『江戸幕府老中制形成過程の研究』)、この時期は「人」そのものの「将軍側近」と、すでに「人」から「職」へ変貌を遂げていた「老中」がいたのである。だからこそ起こる両者の衝突から、幕府政治の本質が見えてくる。p.27-8

 つまりは、白石が先例を調べ、それだけではうまくいかない場合は、間部を交えて、家宣と詮議を重ね、出た結論を老中らに書付にして渡すという方法である。将軍家宣とその側近により政治が主導されているのだ。深井雅海氏の研究によると、老中の御用部屋や、間部の手元で作成された記録を分析すると、間部が老中と談合した事例はわずかで、そのほとんどは、法令や達を老中へ伝達するのみであり、老中奉書まで間部の起案により伝達されていたことが明らかになっている(深井雅海『徳川将軍政治権力の研究』)。p.32-3