永冨謙『“道”を拓いた偉人伝:道をつくり、道を愛した5人の軌跡』

“道”を拓いた偉人伝 (道をつくり、道を愛した5人の軌跡)

“道”を拓いた偉人伝 (道をつくり、道を愛した5人の軌跡)

 明治から戦前期にかけて、各地で道路の建設や改良に取り組んだ、比較的無名な人々の紹介。奈良県川上村を中心にさまざまな公共事業に邁進した土倉庄三郎、「天爵大神」を名乗って愛知県や福井県で道路改良に邁進した水谷忠厚、有名な大分県中津市の「青の洞門」を建設した禅海和尚、昭和初年に各地の橋梁の設計を行なった増田淳、滋賀県でデザイン性の高いトンネルを設計し、その後千葉で活躍した村田鶴の5人を取り上げている。特に、前二者はスケールの大きい活躍を見せ、地形図と首っ引きでないと、説明ができない。


 最初の土倉庄三郎は、奈良県川上村の山林地主であり、川上村を中心に経済発展のための開発を積極的に推し進めた人物。林業振興や造林技術の伝播の方面では有名人で、最近も田中淳夫『森と近代日本を動かした男山林王・土倉庄三郎の生涯』が出版されている。これは、購入はしているのだが、現在積んである。
 とにかく、公共のためと、ジャンジャン金を使いまくったのがすごすぎる。で、庄三郎と息子の代に、一気に財産を使い切ってしまう。スケールがでかすぎる。土倉家は伊勢湾台風の被害を受け、ほとんどの物が流失、物置のなかの行李に残った反故文書類が、後に天理大学に寄贈され、残るのみという。この被害がなかったら、どういう史料が残されただろうか。
 川上村から上北山村下北山村を貫き、和歌山県境まで通じる東熊野街道の建設に主導的な役割を果たし、私財を大量に投入。川上村から、大台ケ原をかすめ、大杉谷を抜け、三重県紀北町まで抜ける道路を建設。紀伊半島奥地の森林伐採を促進したり。道路の建設もすごい。明治期の車道だけに、いまや、地形図でも痕跡程度にしか記載されていないが。


 二人目の天爵大神、水谷忠厚は、没落した尾張藩士族。行商で生計を立てていたが、1880年ごろから10年ほどの期間に、愛知県と福井県の領域で、多数の道路の建設改修を手がけている。最初は、自身が手を動かし、峠を広げるところから始まり、後には多くの人を巻き込み、地域のリソースを組織化することによって、広い範囲に足跡を残すことになる。自分は金を持たないが、多くの人を動かして、金と労働力を出させ、それによって道路の建設を行なう。政府の要人の知遇を得たとはいえ、なかなか破天荒でおもしろい。
 地元の有力者などの醵金を得て労働力も地元から出ているあたり、地域がそれだけの実力を持ち、自立的にインフラ整備を行なっていた最後の時代と言えそう。あと、ふと思ったのだが、宗教的な存在として、自身が旗頭になり、多くの人を動かしてインフラ整備を行なうというと、行基などの勧進聖を思い起こさせるな。そういう伝統があったからこそ、政府の要路や仏教教団の幹部、地域の有力者などが、抵抗なく天爵大神を受け入れたのかもな。かつ、仏教者ではなく、「神」を名乗っているのが、明治時代的なのかも。


 三人目は、日本最初の道路トンネルである「青の洞門」を開鑿した、禅海和尚。菊池寛の小説と、現在残されている史料を見比べながら、禅海和尚の「実相」を描き出そうとしている。
 もともと、河原を通っていた街道が、農業用の堰の建設によって水位が上がり水没。難所になっていたのを、農業用水用トンネルの技術を転用して、トンネルを建設したという背景の説明が興味深い。地域的な文脈があって、洞門の開鑿という建設事業が組織された。
 あと、現在の青の洞門が、明治40年代に大規模改修を受けているが、それ以前の姿を追おうとしているのも興味深い。もともとの洞門は、ずいぶん低い場所を、起伏あり、屈曲ありで建設されていたようだ。ある意味、これほど有名なのに、発掘調査や旧情を復元するような測量調査が行なわれていないのが、すごいな。


 四人目は、昭和初年に設計事務所「増田橋梁研究所」を開設、各地の名橋の設計を請け負った増田淳。近代土木遺産のAランクに指定されるような橋をたくさん設計している。また、増田は、技術的な引き出しが多く、さまざまな形式の橋を設計しているところも特異であると言う。
 地元で現在も愛されているような鉄橋を建設しているのだな。
 熊本では、5本の橋を設計し、現在は八代市中心部近くの前川橋が、自転車歩行者専用の橋として残されている。先代の長六橋の設計者だったようだ。あれも、残せればなあ。坪井川橋(坪井川可動橋)というのも、どういうものだったのか気になる。


 ラストは、滋賀県で近代土木遺産Aランクのトンネルを設計し、後に千葉に転じた村田鶴。この人に関しては、著者は以前から消息を追っていて、2008年刊の『廃道本』では、千葉転居後の動向はほとんどわからないと書かれていた。その後、関係者と接触できたようで、千葉時代の状況も詳しく書かれている。
 技師と工員の仲介レベルの技術者を養成する「工手学校」を卒業し、最初は埼玉県に「技手」として採用。今で言えば、ノンキャリアの技術者って感じなのかね。利根川水系の治水工事に関わる。その後、上司の滋賀県転勤の後を追って、大阪府滋賀県の技手に。18年間、滋賀県で土木工事に関わる。その後は、千葉市で土木課長となり、千葉市の都市計画や蘇我の工業用地の埋立工事などに関わる。戦後は、千葉倉庫株式会社の社長として、晩年まで努めたと。工手学校出身者としては、出世した方なんじゃなかろうか。
 しつこく追っかけると、ここまで情報が出てくるんだな。

 以上のもろもろのような「昔の人の意図」「昔の人の苦労」が読み取れる痕跡が好きだ。禅海和尚が青の洞門を開削した頃、トンネルを作ること(人が通るための穴を掘ること)は前代未聞のことだった。鉱石を採掘するために、あるいは水路を通すために穴を掘ることはあっても、恒常的に人が行き来するための穴を掘ることはなかった。自然に開いた穴であっても、人はそれを「魔所」と看做して恐れていた。山道の脇にほら穴が開いているのを見つけて「こんな穴をそのままにしておくとよくないものが住み着く」といって埋めてしまおうとする昔話があるくらいだ。暗い所やじめじめした所を忌避するのは人の性であって、牛馬ならなおさら恐ろしがっただろう。だからこそ、道路隧道の嚆矢とも言われるこの洞門に明かり取りの窓がある。闇を恐れずに穴を掘り、明かり窓を設けて後人の用に供した、禅海和尚の仏心がある。そんあことに気づかされたのだ。p.180

 地中が「異界」だからこそ、仏教者が挑む理由になったのだろうな。しかも、回国修行の法師というのが、らしいと思う。