講演会「古代球磨の神像と仏像」

 現在開催中の展覧会「本遺産認定記念 ほとけの里と相良の名宝─人吉球磨の歴史と美─」のミュージアムセミナー。県立美術館がおこなってきた球磨郡の仏像の調査の成果の紹介。そして、それが、出展されている仏像の見所を紹介するものになっている。最初見たときには、見所がいまいちわからなかった。
 しかし、球磨郡は仏像や神像が集中しているのだな。平安時代のものが70点って。九州の平安時代の在銘仏像13点中、5点が球磨郡にあるそうで。本当に、神と仏の里って感じだな。


 全体的には、平安時代前期(800-900年代)、平安時代後期(1000年-1200年)、鎌倉時代南北朝室町時代の時代ごとに分けられる。メインは、平安時代後期。
 最初は、平安時代前期。この時代の仏像は、多良木の木造観音菩薩立像や木造男神像が紹介される。観音菩薩立像は、すっくと立った姿勢や、胸の下で絞ったプロポーションなどが特徴。奈良時代風の古風なもので、南九州では孤立例であるという。北九州では類例があり、福岡県鞍手町長谷寺の十一面観音立像や大分県宇佐市の天福寺奥の院の菩薩立像などが紹介される。後者の男神像は、彫りの深い厳しい顔つきやぼく頭冠という中国風の冠が特徴。


 続いては、平安時代後期。
 それまでの地域性があった仏像が、「定朝様」と呼ばれる様式に統一される。
 また、球磨郡の各地に割拠した領主たちの氏寺の仏像が現在まで残る。主な有力者として、須恵氏、人吉氏、平河氏、久米氏などが存在したが、須恵氏関係の勝福寺毘沙門堂阿蘇釈迦堂。平河氏関係の荒田観音堂の仏像が紹介される。
 銘が入った仏像は、5件。そのうち最古の大治5(1130)年の釈迦如来像と薬師如来像は、現在は熊本市の個人の所蔵されている。現在となっては、どういう来歴かはよく分からなくなっているそうだ。両者は、耳の作りなど、作者の特徴の出る部分が似ていて、同じ作者なのではないかという話。
 続いては、平河氏の仏像と思われる保延7(1141)年の釈迦如来坐像。顔の造作が下半分に集中しているなどの特徴がある。この特徴は、勝福寺の天部像にも、共通する特徴なのではないかという話。
 須恵氏関係の仏像は比較的多数残る。あさぎり町阿蘇釈迦堂の釈迦如来像とそれにつく二天像。勝福寺毘沙門堂の二天像(1147年)と毘沙門天立像(1156年)。釈迦如来像は、優品で、京都から持ち込まれたものではないかという。また、それに侍する二天は、材質が檜と楠で異なり、前者は京都などの作、後者は地元の仏師の作ではないかという。また、阿蘇釈迦堂の毘沙門天像が、勝福寺の天部像のモデルになったのではないかという。影響関係が複雑で興味深い。
 12世紀の半ばに、仏像の建立が集中するのは、この時期に仏像を製作する社会的必要性があったからではないかという。天候不順でもあったか、内部対立でもあったか。


 三番目は、鎌倉時代
 湯前町阿弥陀三尊像(1229年)や多良木町阿弥陀三尊像(1295年)が紹介される。
 前者は、阿弥陀如来と脇侍の観音菩薩像、もう一つの勢至菩薩像で、制作者が違うらしい。勢至菩薩像は、優品で、外部から持ち込まれたのではないかと。三尊像なのに、仏師が違ったりするのか。
 後者は、有名人の作で、法印院玄は、三十三間堂の仏像のうち、6-7体を手がけている人物だそうだ。その三十年後に、多良木町阿弥陀三尊を手がけていると。また、法印という僧位を得ていて、これは仏師にとっては最高級の位であり、流派のトップに与えられる程度なんだそうな。また、全体にお金がかかった作りなのだとか。
 相良氏は、上下に別れ、下相良氏が優位にたつ。多良木の阿弥陀三尊像は、それに対抗し、自分たちが嫡流だと主張する、「意地」のようなものが込められていると。


 最後は、南北朝期以降の時期。地元の仏師慧麟の贓物活動。相良氏の代官クラスが金を出して仏像を造っている。また、さらに集落単位で、仏像を製作した事例などが紹介される。
 相良氏は、傍流の長続によって簒奪されるが、その時期の文書は残っていない。さらに、簒奪後の混乱が収まった後、慧麟の造仏活動が全域で展開されると、仏像なのに、なかなか生臭そうな雰囲気が漂っているそうな。