特別講演会「雪舟と狩野派、そして細川三斎」

 永青文庫学芸員から群馬県立女子大へ転じた三宅秀和氏の講演。前半の雪舟の絵や狩野派の話に時間を使いすぎた結果、後半の細川忠興雪舟作品の関係のところが、ものすごく飛ばしまくりになったのは、ご愛嬌。


 15世紀に生きた人である雪舟の作品が、16世紀後半以降の狩野派細川忠興に、どう評価されたのかという話。
 雪舟の紹介がかなり長かった。太い線でゴツゴツした岩や木を描く。丸いウロや岩の穴。曲がったところに突起ができるなどが識別ポイントだそうで。この時代、絵画には賛を入れるのが基本のため、のちの時代の絵師と比べると伝記情報が豊富。大内氏と関係が深く、「山水長巻」や「天橋立図」など、公的な性格を持つ作品が残る。また、各地を旅しているが、これは大内氏の情報活動だったのではないかという説があるそうな。まあ、特に、スパイとして扱わなくても、こういう芸能者があちこち回れば、自然に情報通になるわな。天橋立図などからすると、地理・地形情報などの兵要地誌の収集も可能と。
 京都の禅宗の僧侶や毛利氏などのネットワークで、高い評価が維持され、家光が茶会で掛け軸として使用したのを契機に、広く、重要視されるようになったと。


 狩野派内では、探幽が深く研究して、影響を受けていると。狩野家の様式を一変させている。
 また、狩野家自身が、天下人の御用絵師として、画壇を固める過程で、自分たちの経歴を飾るのに、雪舟を利用した側面が強いと。徳川幕府の秩序を可視化し、徳川将軍の権威を荘厳する役割を果たすようになる。その場合、始祖の正信が、たまたま足利将軍の義政に登用された、では都合が悪かったと。
 そのため、狩野家の公式史書たる『本朝画史』では、東山山荘の障壁画の画家として、「雪舟に推薦された」という伝承を記していると。


 細川忠興雪舟作品や狩野派との関わりも興味深い。
 桃山時代の画壇は、狩野派が圧倒的主流であり、秀吉の館なども狩野派の絵画で満ちていた。にもかかわらず、藤孝・忠興代の細川家では、狩野派に正式に発注したなどの、公的な関係が見出せないと。むしろ、雪舟の系譜を継ぐ人々、長谷川等伯や田代等甫、矢野吉重などを登用。矢野家は、細川家の御用絵師となっている。また、毛利家に雪舟の孫弟子からはじまる雲谷派の絵師を派遣を要請しているなど、雪舟流とのかかわりが深い。
 雪舟作品の所持も史料から明らかになる。そのなかには、信長を弔うために建てた泰巌寺に、「釈迦・文殊・普賢三尊図」を納めたとか、義弟の木下延俊と「雪舟重山図」を切り分けたなどのエピソードがある。忠興と伊達政宗で、王義之の書を半分わけしたエピソード(伊達政宗と細川忠興で半分こ・いい話? - 戦国ちょっといい話・悪い話まとめ)は聞いたことがあるが、雪舟の絵でも、そういうことやっているのね。
 雪舟の絵画を将軍家への進物として使っていたりして、雪舟を評価する禅僧や大名のネットワークの一角に、忠興もいたこと。
 雪舟と細川家のつながりの契機としては、雪舟流を引き継ぐ絵師が、領国となった丹後や丹波に居住していたこと。天橋立図作成の時に、長期間滞在したらしく、その足跡が残っていたのではないかという。


 狩野派の「流派経営」の話も興味深かった。というか、このあたりにかなり力点があった感。
 室町時代の宮殿建築の障壁画では、中国の有名画家がモデルとして指定され、見本として将軍家などのコレクションを見せられ、それに似せた絵を描いた。始祖の正信代には、そのような小規模なものであった。
 これが、正信の時代には、多数の弟子を抱え、大規模な宮殿建築の絵画を、短納期で作成できるようになった。全く、質が変わってくると。中国画家の個人名ではなく、真体・行体・草体といった規格化も重要であったと。