山本博文『参勤交代』

参勤交代 (講談社現代新書)

参勤交代 (講談社現代新書)

 読みたくなったので、図書館から借りてきた。昔は持っていたのだが、引越しの時に処分してしまった。紹介される史料が興味深い。
 全体としては、参勤交代が大名の服属儀礼であり、幕府はむしろ行列の拡大を抑える方に回っていたこと。参勤交代の出発の手続きや道中のアレコレ。道中のトラブル。藩財政における参勤交代の重み。自己の格式を主張しようとする大名の行動といった構成。
 他の本で紹介されている史料も多いな。紀州藩酒井伴四郎の日記は、青木直己『幕末単身赴任:下級武士の食日記』という本が出ている。
 あと、「明石源内寝覚鉄砲」のところなんか、元ネタの文献を、ほとんど丸写しなのはどうなのだろうか…


 豊臣時代の「お礼」が参勤交代の直接の起源であること。忠誠競争としての参府行動の華美化。それを制度化して、枠をはめるのが武家諸法度の参勤交代制度の意義だったと。第5章の細かい差異化で、格式を高めようとする競争と通じるところがあるな。「儀礼国家の心性」か。


 細かい道中の事例を紹介する第2章「参勤道中」と第3章「参勤交代と突発事故」が、本書で一番おもしろいと思う。
 あらかじめ、参勤伺いを出しておくとか、出駕日や到着日を変更する際にも、伺いを出す必要がある。お供する家臣の選抜。前日の会食とか。参勤交代の人数の大半が、陪臣、すなわち家臣の従者であるというのもおもしろい。秋田藩佐竹家の参勤交代では、知行取りクラスが131人に、足軽189人、奉公人や藩主の身の回りの世話をする人150人程度って感じか。それに加えて陪臣が856人。陪臣も、小型の行列を組むのだろう。
 あるいは、他の藩の領地を通過する際の、お互いの気の使い方とか、他の大名行列と行き会ったときの対応とか。大名が通過するときには、道路の清掃などの馳走を行い、通過する大名も挨拶の使者を出す。互いに贈り物をしあう。通過ルートの大名とトラブルを起こすと、非常にめんどくさいことになる。本書では、「明石源内寝覚鉄砲」の事例が紹介されている。明石藩松平斉宣が、尾張藩領で行列の前を横切った幼児を切り捨てた結果、尾張藩が領民を害したと怒り、通行禁止と宣言。それ以後、明石藩尾張藩領内では、平民の格好をして通り過ぎる破目になった。山下昌也『わずか五千石、小さな大大名の遣り繰り算段』では、伊達家が道中で宿の主を切って、その次の年にルートを変えるみたいな事例が紹介されている。他藩領での行動は、なかなか気を使うものであったようだ。
 大名行列が行き会ったり、同じ宿場に投宿するときも、いろいろなトラブルが起きがちで、大名は他の大名の状況をにらみながら、ルートを変えたりしていたと。国持ち大名クラスだと、御三家の尊大な儀礼に付き合いたくないとばかりに、ルートを変えるとか。下手すると、血が流れるようなこともある。
 永青文庫所蔵の『道中異変例』という、道中でのトラブルとその処理について問い合わせた史料が非常におもしろい。同僚との喧嘩で死者が出たり、武士が乱心して道中で人足を切ったり、せびってくる馬子を切り捨て御免でぶった切ったり、藩主が途中で死去したといった事例が紹介される。藩主の死去や同僚の喧嘩でも、あちらこちらへの報告や現場となった宿場の役人へのお礼など、煩雑な事務手続きとそれなりのお金がかかることになる。
 これが、荷運びに雇われた江戸の町人を切ると、犯人を護送する、裁判手続きなど、さらに手間がかかると。この時代でも、精神的異常の場合は、「責任能力なし」扱いになるのが興味深い。しかし、この刃傷沙汰を起こした生駒三郎右衛門とその家は、生実藩では、どのように扱われたのだろうな。
 慮外討ちの事例も興味深い。馬子が、値段の吊り上げでごねて、切って見ろと挑発。最終的に、その馬子を切り捨てている。我慢を重ねた上での切り捨てなので、無罪ということになっている。「筋を通せば優遇される」というが、あちこちに届けを出して、審議にニか月だから、たいした手間ではあるな。そして、無意味に人を斬るというのは、やはり許されることではなかったと。


 財政に占める参勤交代の費用というのも、おもしろい。だいたい、藩の歳入の3パーセント程度。大名を弱めるための制度というのは、当らないと。しかし、江戸と領国の片道でこれだけの予算を使ってしまうという点で、さらに絶対額の観点から、当事者にとってはかなりの負担だったと。
 しかしまあ、人件費が4-5割で、残りの予算の50パーセントを江戸での生活費や社交、藩士の手当てに持っていかれるのはすごいな。地域の生産のかなりの部分が、江戸に持っていかれる。そりゃ、江戸が繁栄するわけだよなあ。国許の運営はその半分と。
 参勤交代の道中の主な費用は、宿賃、荷物運びの日雇いへの支払い、お供の藩士への援助、進物あたりが主な費目だったと。100石取りの武士が藩に借金の申し込みを何度も申し込んでいる事例が紹介されるが、このあたりのクラスの武士が一番苦しかったのかもな。収入はたいしたことない上に、使者なんかで衣服の経費がかかりそうな感じだし。


 個人的には、「明石源内寝覚鉄砲」のエピソードが印象的。
 気負った若い殿様が、行列の前を横切った幼児を切り捨てる。身柄のもらいうけに、あちこちの人が嘆願にやってくるとか、藩権力が領民の保護に任じている状況。御三家と他の大名の力の差。
 最終的に、幼児の父親で猟師の源内が、子供の復讐に、鉄砲で狙撃。明石藩主松平斉宣は、射殺された。あんまり非道なことをやると、実力行使を喰らう世界だったんだな。
 ただ、このエピソード、調べてみると、歴史的な事実かどうか怪しいそうだが。→https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%96%89%E5%AE%A3


 以下、メモ:

 彼らの食生活を見ると、最も多いのは、酒を除けば蕎麦(計二十回、ちなみに酒は三十四回)で、次に寿司(十四回)である。鍋物は、蛤鍋、泥鰌鍋、鶏鍋、雁鍋、豚鍋、アナゴ鍋、かしわ鍋などそれぞれ一回から四回、魚は鰹、鮪、鰯、鮭、鯖、鯛、鯵、ウグイ、こはだ、かれいなどさまざまな種類の物をまんべんなく食べている。p.22

 酒井伴四郎の日記に見る食生活。肉を常食にしていたとはいえないが、江戸では、それなりに食べる機会があったのだな。あと、魚は、やはり需要がある海辺の都市というのが大きそうだな。

一、騎馬の面々が蹄鉄を打つ時は、従者一人、馬口取二人、轡籠持一人を召し連れ、御行列の左右に出て轡を打たせること。p.127

 江戸時代に、馬の蹄に蹄鉄を打つって、どの程度普及していたのだろうか。