ミュージアムセミナー「江戸時代絵画史における”京都”」

 展示の構成に沿った解説。洛中洛外図と遊楽図:京都の街を描く、寛永期の古典復興と俵屋宗達、18世紀の京都画壇と若冲という構成。


1、洛中洛外図と遊楽図:京都の街を描く
 洛中洛外図は、室町時代の「第一パターン」と、桃山時代以降の「第二パターン」が存在する。前者では右隻に下京を、左隻に上京を描き、上京側の背景は北西方向になる。後者では、堀川通りあたりを軸に、東西対称に描かれる。秀吉死後の京都は、東山に豊臣政権に関連する方広寺大仏殿などの宗教施設群、西側には徳川政権の拠点である二条城が並立。どちらを大きく描くかで、納品先の政治的立場が分かるというのも、興味深い。
 また、京都全景を描いた洛中洛外図から、部分が切り取り拡大され、「東山名所図屏風」や「四条河原遊楽図屏風」のような部分を描いた図が出現。さらに、背景を捨象した遊楽図が出現し、個人をクローズアップした浮世絵と変化していく。
 遠近法などの技法が存在しない中で、試行錯誤した形跡が見え、「東山名所図屏風」では、かなり建物がいびつと言う指摘もおもしろい。


2、寛永期の古典復興と俵屋宗達
 二番目は、17世紀半ばの京都における「古典復興」とそれを前提とした美術の流行。和歌や平安時代の物語などが再評価されるようになり、それをモチーフとした作品の需要が高まる。俵屋宗達が仕立てた絵画をあしらった用紙に、本阿弥光悦が名歌を書した作品は、そのような需要の元に作成された。
 あるいは、宗達が多用した金銀装飾は、京都に蓄積されてきた伝統技術を背景にしたものであり、また、有名な風神雷神図も、北野天神絵巻の雷神をモデルにしている。一方で、普通は赤い雷神を、金屏風に映えるように白く描くなど、装飾性も重視された。
 宗達工房が、伊年という印を使っていたという話も。


3、18世紀の京都画壇と若冲
 京都画壇の状況。全体として、絵画の基礎としての狩野派の影響が基調。大名などの公的な儀礼の場に使われる絵画を生産するため、均一な絵画の生産を可能にするメッソドを確立。浮世絵は、江戸の地方美術であり、中流商人が需要。琳派は、江戸や京都、大阪などの都市部の商人や武士など上層階層の私的な場で受容。若冲は、漢学を学んだ、京都の文人層に受容された。
 若冲の作品には、中国からの影響が濃厚。黄檗宗や沈南頻といった、17世紀に入って流れ込んだ文化を吸収している。中国の画題を取りつつ、詳細な昆虫の観察や裏彩色のような在来手法を導入して、自らの描きたいものを描いていると。
 18世紀の京都画壇は黄金時代で、他にも現代的なリアルを目指した円山応挙、構図の面白さを目指した応挙の弟子長沢芦雪、伝統的な画題をパロディ化した曽我蕭白、現実の景観に中国の景観を投影した池大雅などがいたと。