「顕光院と砂取邸庭園をテーマにした学習会」

 県立図書館裏手にある、旧砂取細川邸の来歴を紹介する学習会。地元の人にも、来歴が忘れ去られていたが、細川家の史料を調べて、忘れられていた来歴が明らかになった。竣工当時の図面も残っていて、照合できる。調査の結果、旧状がかなりきっちりと残されている。建物は撤去されて、土盛りもされて、景観は変わっているが、平面図の点からはあまり変わっていない、と。


 敷地全体の変遷は以下の通り。
 もともとは、二の丸の屋敷が軍用地として召し上げられたことにともなって細川斉護の正室顕光院(浅野益)の隠居所が明治6-7年に建設。明治7年4月以降は、実際に隠居所として稼動。作庭も、同時期に行われた。顕光院は、その後、ここに住んで15ヶ月ほど後に死去。主不在に。
 明治10年西南戦争では、細川家の子供たちの避難場所になったり、転々とする子供たちのための補給拠点、細川家家臣の連絡場所として活用。さらに、牧崎に屋敷を持っていた細川内膳家が焼け出されたので、内膳家の屋敷に。このあたりから、周囲の人々の記憶に残っている感じかな。
 大正11年に、内膳家が屋敷を手放し、六車初次郎が購入。料亭「江津花壇」として昭和17年まで営業。戦時体制によって、営業禁止になったあとは、健軍の三菱重工の迎賓館的施設、戦後には井関農機の迎賓館。1972-80年にかけては、屋敷の建物を撤去し、ボーリング場「江津ガーデンボール」として営業。その後、熊本県が買収し、県立図書館が建設という経過をたどっている。
 県立図書館の設計段階では、庭園部分を埋め立てて、より大きな建物にしようという意見もあったが、当時の土木部の課長補佐が却下して、生き残ったという。そんな、ギリギリの話があったのだな。あとは、県立図書館を建設する際に、2メートルほど土を持っているので、庭園から北を見た景観はずいぶん変わっている。かつての屋敷の屋根から見るような感じになっているとのこと。


 江津花壇の庭園担当者に、割と正確な伝承が残っていたと言う話も興味深いな。大正12年の『郷友雑誌肥後』の記事では、「大木某」による原型の形成。その後、顕光院の屋敷になり、「古田天真斎」によって作庭が行われたという。文献的な証明は出来ないが、大木兼能の家系が、この地に別荘などを建設していた可能性がある。また、古田天真斎は、古田織部の弟の家系で、細川家の茶道頭萱野家の6代目の可能性が高い。2代目甚斎が水前寺情趣園を、7代目宗保の弟子が、県立図書館の敷地北東にある旧東浜屋庭園を作庭。加勢川沿いには、古田/萱野家による庭が並ぶ形になっている。


 芭蕉園がいつ出来たかと言う話も興味深い。明治41(1908)年の夏目漱石の水前寺の記事には記載がなくて、その5年後の徳富蘆花芭蕉園の存在を記している。この間に植栽されたこと。この時期に高まった、東南アジア、南洋方面への進出を主張する「南進論」の影響を受けたのではないかという。


 あるいは、顕光院の屋敷の家政組織の話。希首座の祠の話など。後者の話も興味深い。もともとは、六所宮だったのが、明治31年に現在位置に移転。2000年に井関農機によって、祠の修復が行われ、その際に瓦屋根から、現在の銅板張りに変わったとか。


 講演の後は、実際に庭園を歩きながらの解説。
 何年か前は、裏のほうは、真っ暗で、そもそも通れるのという雰囲気だったけど、生い茂っていた竹薮の伐採が進んで、ずいぶん明るく。今回の講師、青木勝士氏を中心に、清掃や伐採を行っているそうだ。2016年の写真と比べると、確かに、整備が行届いてきた感じはあるな。水草が減っていたり、竹薮が減っていたり。
 整備を続けないと、すぐに藪化してしまうので、今後も継続的な維持管理が可能になるように、周知を行うと言う意図らしい。


 Before(2016/7/7)

   ↓
 現在。



 他の写真。