科野孝蔵『栄光から崩壊へ:オランダ東インド盛衰史』

栄光から崩壊へ―オランダ東インド会社盛衰史

栄光から崩壊へ―オランダ東インド会社盛衰史

 ぶっちゃけた感想を言えば、薄い。その分、入門用にはいいかも。ただ、ヨーロッパ中心主義と言うべきか、もともとのアジアにおける貿易。東南アジアの人々、グジャラート商人、華人などの活動が視野に入っていない。それに比べれば、オランダ東インド会社そのものが行なったアジア内での貿易活動は微々たる物でしかない。特に、17世紀には。
 後半は、オランダ東インド会社の衰退について、簿記の不備、社員の腐敗の観点から解析している。ただ、ここでもあまりに現代的な視点からの解釈ではないかと感じる。
 この時代(17−18世紀)に、そもそもこのような巨大な組織を近代的に統治する方法そのものが無かった。国家でさえ、徴税請負人に徴税をまかせ、官僚は世襲で利権化し、軍隊も部隊単位で「経営」される半ば私的な組織であった。また、帳簿についても、連絡にかかる時間も含めて、きっちりと全体を見渡すものができるには、まだ時間がかかっただろう。未だに、会計処理をめぐってはごたごたが起きるわけで、会社が人間の組織である以上、「完成した会計システム」は永久に完成しないと思う。
 また、社員の「腐敗」についても、社船をつかった私貿易の横行が指摘されている。しかし、もともと商船の船員が個人的な荷物を持ち込んで交易を行なうことは、中世以来の慣習であった。ヴェネツィアの商用ガレーもポルトガルの東西貿易もバルト海・北海岸の商船でも、それは普通に行なわれていた。それを考えると、東インド会社が禁止しても、なくなるものではないだろう。また、インド洋のような、白人人口がごく少なく、連絡が難しい場所で、まともな監視ができるはずもない。時間がたてば、駐在地域の人間との関係が深まり、より遠心力が働くであろう。フランスの王権でも、官僚が世襲化・在地化して、統制が聞かなくなる状況に、革命で消滅するまで悩み続けたわけだし。

 しかしこの汚職は、ボクサーによれば、当時の競争相手であったイギリス東インド会社の従業員でも、オランダに劣らずひどいものであったようだ。しかし、イギリスの東インド会社がその後もながらく存続したのに対し、オランダの東インド会社がはやくも約200年で解散しなければならなかったという事実から考えれば、この汚職オランダ東インド会社の解散への決定的な要因とはいえないことに留意すべきであろう。p.118

 とあるように、別の要因を重視すべきだろう。オランダ本国のヨーロッパ経済における地位の低下、香辛料から綿織物と茶への主要商品の変化、拠点を通じた貿易活動から領域的支配への変化。インドネシアを支配したオランダとインドへ進出したイギリスの違いが後に大きく影響したなどが考慮すべき要因ではないか。
 最終章で紹介された長崎の商館長も勤めたティチングの日本人との交流・紹介活動が興味深い。長崎滞在中も、その後離任して日本を離れたあとも、日本の役人などと接触を保ち続けていたそうだ。書簡が残存して、出版・邦訳もされているので、興味深い情報が得られるかもしれない。18世紀も末となるととても手が出ない時代だが。

東インドからオランダへ送られた商品の内訳(単位 %)

 1619-211648-501668-701698-1700
香辛料17.5517.8512.0511.70
コショウ56.4550.3430.5311.23
砂糖 6.394.240.24
茶とコーヒー   4.24
薬品・染料など9.848.525.848.29
硝石 2.075.083.92
金属0.100.505.745.26
織物・絹糸・綿糸など16.0614.1636.4654.73
雑貨 0.170.060.39
 100.00100.00100.00100.00
金額294362571081315023
(p.47の「第一表 東インドからオランダ本国あての貨物」から)

 この情報が欲しくて、本書を読んだようなもの。伊万里や景徳鎮など貿易陶磁の本を読んでいると焼物がオランダ東インド会社などの関与が扱われるが、個人的にはオランダ以前の東西貿易は、香辛料のヨーロッパ搬入しかイメージが無くて首をひねっていた。しかし、この表を見て、そのギャップの原因が分かった。磁器は「雑貨」の項目に含まれるが、これは1%以下の占有率。重量ベースだともう少し増えるだろうが、全体から見たとき、その占める割合が圧倒的に少ない。遺物として残りやすいために注目され、文献からは分からない情報がえらるのだが。
 香辛料は、クローブ、ナツメッグ、メース、シナモンなど、いわゆる「上質香料」と呼ばれるもの。産地がモルッカ諸島など限られていて、オランダが独占。コショウは広い範囲で生産され、流通を担った勢力が違う。16世紀のポルトガルの東西貿易でも分けて考えられることが多い。この表を見ると、コショウの割合が劇的に低下して、逆にその分を織物が埋めている。「香辛料から綿織物と茶へ」の転換の動きが明瞭に見て取れて、興味深い。17世紀中に、香辛料そのものの奢侈性が薄れ、インパクトが薄れていくのだが、その状況が見て取れる。まだ、上質香料の類は独占的に支配されていたので低落しないが、コショウは各勢力が輸入しまくって値段が下がったのだろう。また、砂糖の減少(これは南米のプランテーションでの栽培が拡大したせいだろう)と金属の増加が興味深い。