- 作者: 白川部達夫
- 出版社/メーカー: 吉川弘文館
- 発売日: 1999/05/01
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
以下、メモ。
どの時代にもいえることだが、支配者が一方的に、民衆を押さえつけるというかたちで、支配を貫徹できるものではない。一時的には力による強制がおこなわれたとしても、それは結局ながつづきはしない。支配が安定的におこなわれるためには、むきだしの強制力だけではなく、民衆からの合意をとりつけることが不可欠である。支配・被支配という関係をめぐって、相互になんらかの合意があり、これのもとづいて支配が正統なものとして社会に承認されておこなわれるのである。それぞれの地域・国家や時代によって、合意のあり方も、質もちがうし、相互にこれが完全に一致しているわけでもない。むしろ一定のちがいをもちながら、せめぎあっているのが現実であり、その境界はあいまいである。しかしそれは合意の枠組みの存在を否定するようなものではない。p.5
しかしそれは契約や法が、絶対的な客観性をもって人びとを拘束していると思いこむ、現代人の観念からみるから、そのようにみえるにすぎない。近世では、むしろそのときどきの相互の事情の摺り合わせが重視された。
……
相手の相続がいきとどくよう事情を察して、請戻しにおうじつことが、裕福なものにふさわしい態度とされたのである。また請戻しにおうじつばあい、本分・親類・慈愛・義理の間柄などを考慮しておうじたとすることが多くみられた。事情を察するには、それだけの関係が前提となる。それが間柄であった。一面で土地売買は、間柄をつうじた金融の結果なのであり、人と人のむすびつきそのものであった。したがって請戻しでも、この間柄が思い起こされたのである。こうした金融は、相手の困窮を救うための融通であり、ことさら利益をもとめるものであってはならないと理解された。まったく見ず知らずの人が、わずか一時間ほど向き合って契約が成立してしまう現代の土地売買。そこでの売り手と買い手の非人格化されたかかわりかたとは、まったくことなった濃密な人間関係がここにはあったのである。p.33-4
ポランニーの言説を思い起こさせる議論。