渡辺尚志『百姓たちの水資源戦争:江戸時代の水争いを追う』

百姓たちの水資源戦争: 江戸時代の水争いを追う

百姓たちの水資源戦争: 江戸時代の水争いを追う

 タイトルと違って、どちらかというと百姓たちが争いを顕在化せず、秩序ある利用の維持に腐心したかという話。まあ、インパクトのあるタイトルは大事だよねと、タイトルに釣られた人間は思う。中世だと、水争いに周りの村や武士が加勢して、ガチに戦争になっていたわけだが。近世になると、関係する村々で協議して、ルールを作る。紛争は裁判を通じて解決するという形に変わる。「紛争解決」から「公」について考える、90年代以降盛んになった議論を、わかりやすく伝える本。字も大きいし、読みやすい。
 前半三分の一程度は、概論。村々の共同のあり方や水路との関係を、概括的にまとめる。残りは、大阪府内の農業用水路王水井路を利用する王水樋組合を中心とした、水争いの実態。時代による変遷を明らかにする。本書の舞台となる地域は、奇しくも、先日読んだ『シリーズ近世の身分的周縁5:支配をささえる人々』の在地代官の章が取り上げた地域でもある。在地代官松倉伴吾が居住していた碓井村は、王水井路の取水口のある場所であり、本書でも訴訟の関係者として名前が出てくる。


 第一部は、一般的な近世の水利や組合村を解説した概説。近世には、開発が進んで、水や植物などの、農業維持に必要な資源が希少となり、周囲と調整して利用する必要が生じていたこと。これらの資源は、村落の共同所有であり、それが村落共同体の基礎となったこと。さまざまな契機で近隣の村々が連合して課題に対処したこと。治水の技術など。
 用水路の維持管理に村を基礎とした労働力の供給が行われたこと。この時代の用水分配は田越し灌漑が基本だったため、それぞれの他の所有者が自由に耕作できるわけではなく、水が流れる上下の田と共同歩調を取る必要があった。また、分散錯圃制による耕地の分散化も、耕作の共同化を促したという。
 また、水争いのパターンや、戦国大名から近世にいたる、権力の側の水争いに対する対処の変遷。すでに戦国時代から、水をめぐる武力闘争を抑止する方向性は存在し、戦国大名は口伝された「法」にしたがって解決すべしとしていた。さらに秀吉政権は自力救済の抑止へと進む。徳川政権もこの方向性を維持した。あるいは、用水路の維持に際しての負担の分配の方法など。
 川や水路との付き合いは、灌漑だけでなく、漁業、水車、交通路としての利用が存在したこと。場合によっては、新田開発を拒否し、沼を維持するような動きもあったと。


 第二部は、現在の藤井寺市羽曳野市に属する村々の、水をめぐる紛争の歴史を、村々に残る文書によって追いかけている。王水井路に関わる組合の内外での抗争、また溜め池の落水の流し方をめぐる抗争、近代に入ってからの論理の変容などが扱われる。
 17世紀には、王水樋組合の内外で、用水をめぐる紛争が頻発する。この際、近世初頭に取り決めを文書化したものが、水利秩序の慣行を示す証拠として利用されることになる。また、17世紀中に作成された文書が、その後の水利の権利関係を示す基本的な取り決めとして継承される。この時期は、組合内部での、水の分配に関する争いが多いのが印象的。
 続いては18世紀、19世紀。この時期にも、前世紀と同じような紛争が継続する。大和川の付け替え、取水口の水利をめぐる争論など。紛争に際して、村落が、堤奉行や大坂・堺の奉行所など、複数の役所から自分に有利な役所を主体的に選んでいた姿。用水争いの特質として先例主義、文書主義、「百姓成り立ち」の論理などの紹介。さらに、いったん訴訟になると、費用の負担が重いため、なるべく表立った争いにならない段階で処理しようとしていたことが指摘される。
 四章は村々の内部構造。この地域は二つの街道が交差する地域で、岡村や誉田村などは、非農業従事者を2-3割ほど抱える、都市的な場であったこと。無高(土地を持たない)の住民がかなり居て、小作やさまざまな仕事に従事する複合的な生業を営んでいた状況。この地域の庄屋の経営の姿など。地主経営と金融経営が柱で、周辺の村々にも土地を持ち、貸し出していた状況。あるいは、大名や大口の金融と近隣の人々へ質を取った小口融資という二つの金融活動があり、後者は地域住民への現金の融通という側面があったこと。名望家としての姿が紹介される。
 最後は、近代以降の変化。大枠は維持されつつ、その内部の論理は変化していく。天皇陵が「発見」され、規制が強化される。水利訴訟に関して、欧米法の「所有権」の論理が入ってくる。土地所有権が変化し、溜め池などの地盤所有権が重要になってくる。争いの解決策をめぐり、投票が行われるなど、近代的な意思決定の様式が村の中にも入り込んでくる。水利組合の参加者が水田所有者のみに限られる。このような変動が起きていて、変わっていないように見えて、大きな変化にさらされていることを指摘している。共同体を解体していく流れが続いているな。
 個別の紛争事例に際して、現代語訳した文書が示され、関係者双方がどのような主張を行ったのかといったことも細かく示され、エピソード単位でも、非常に楽しい書物。


 以下、メモ:

 江戸時代中期以後の治水は、強固な連続堤防を築いて洪水の氾濫を防ぎ、河道を一定に保つことに重点を置くようになったのです。大規模な連続堤防によって、狭めた河川敷の範囲内に洪水を封じ込めようというものです。以前よりも川に近い所に連続した堤防を造ることで、従来は水があふれていた河川敷まで水が来ないようにして、そこを安定した耕地に変えようとしたわけです。自然を押さえつける治水への転換の第一歩だといえるでしょう。p.36

 ある面では、それだけ土地が足りなくなったことを物語っていそうだな。あと、こういうのが天井川になるのを促進した面もありそうだな。

 また、都市の特権商人が価格協定を結んで、村人たちが作る農産物を独占的に安く買いたたこうとすることがありました。そのときは、村々の側でも連合して、それに対抗したのです。代表的な事例としては、現在の大阪府に属する村々が、大坂商人の綿や菜種の独占的購入に反対し、自由な販売を要求して起こした集団訴訟である国訴があげられます。幕府に要求を認めさせるためには数の力が重要でしたから、村々では多数派の結集に努め、ときには1000か村以上もの村々が国訴に参加しました。今日に比べて情報伝達や通信手段が未発達だった江戸時代において、これだけ多くの村々が共同歩調をとったというのは驚くべきことです。p.46

 この時代の農村の政治力。これだけの範囲のネットワークが存在し、簡単には切り崩されなかったってことだよな。

 そういうわけですから、村側の担当者の責任は重大です。『耕作噺』(江戸時代の農業技術書)には、庄屋(名主)の第一の務めは、年貢徴収ではなくて、用水の確保・管理であると書かれています。
 また、『庄屋手鑑』には、次のように記されています。


 他村と共同で利用している用水路に関しては、前々からの慣例を順守し、慣例は記録しておくこと。不明確な点は、慣例に詳しい老人に尋ねて、重要な点は記録にとどめておく。日ごろからこうした心構えがないと、緊急時に適切な対応ができない。かねてから容易をしておけば、いざというときに支障なく対応できる。
 また、水争いが起こったときは、訴訟の経過を初発から詳しく記録しておくこと。訴訟の相手方から何か言ってきたときは、その日付、使いの者の名前と役職などもしっかり確認して記録しておくことが肝心である。そうしておかないと、後日の対応に不都合が生じる。


 ここでは、記録の重要性が強調されています。水利慣行についても、古老の記憶に頼るだけではなく、それをしっかり記録しておくことが重視されるようになったのが、江戸時代の特徴だといえます。記憶から記録への移行です。p.65-6

 うーん、水利に関わることが一番大事か。あと、記録主義への変化。

 この事例に限らず、江戸時代の所有権とは観念的な権利ではなく、実際にそこを利用しているという事実の裏付けがあってはじめて認められる権利でした。利用の事実が常に再確認される必要があったのです。その意味では、今日の「地上げ」とか「土地ころがし」といった、実際の土地利用とは無縁の利潤獲得のためだけの土地売買などは起こり得なかったのです。p.104

 ただし、芦之池という同一対象をめぐって争いが繰り返されたことからわかるように、一回確認された秩序が必ずしも永続的な効力をもつとは限りませんでした。この点も、江戸時代の水利秩序の特徴としておさえておきたいと思います。権利は、現実の利用実態をふまえて、絶えず確認されねばならなかったのです。p.106

 所有の基礎に、用益しているという事実が重要であったと。