教員養成課程6年制の失敗予測 - 岡田克敏

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採用側のシステムを考えずに、単純に養成期間を長くするのは無駄と言う指摘。団塊世代の退職時期で今はちょっとマシかも知れないが、90年代あたりには就職口がなく、教員を目指す人は非常に苦労していた。少子化の傾向を考えると、団塊世代の退職が一段落すると、また採用が絞られるのは目に見えている。採用される可能性が低い状態で、6年制にしても、志望者にとってはリスクが高まるだけ。志望者が減少するのは確実だろうと私も思う。入学段階で絞り込んで、その人間は確実に教員になれるというのなら、あるいは機能するかもしれない。しかし、それでは、制度として硬直的に過ぎるというか、純粋培養しかいなくなる危険性が。
 この手の改革には、人材育成から採用、キャリアパスまでトータルに見通して、整備する必要がある。その点で、養成過程だけを変更する政策は、失敗の危険性が高いのではないか。成功しているところの政策を一部分だけ切り取ってきて、適用しても、制度全体の文脈の中で機能しなければ、有効性を持ち得ない。成功しているところから学ぶべきは、その制度の裏側にある原理・思想、あるいは文脈と言ったものではないだろうか。ゆとり教育が失敗したのは、社会的な文脈から乖離したものであったことが主因であると思う。


 文学部出身なので、横から見ていての感想になるが、教育学部ってどんな人材養成をやっているか良く分からないところがある。教員資格については、他の学部でも所定の単位を取得すれば、資格が取れるわけだしな。しかも、傍から見ていて、どうも教育学部には変な先生が多いように見うけられるとか、微妙に権威主義的な体質があるように見えるとか、どうも芳しい評価にならない。これは資格系ではどこでもありうる通弊なのかもしれないけど。実務者上がりの教員が、人材育成にはそれほど有能ではない。あるいは、職場での派閥が教員養成にも持ち込まれてしまうみたいな。


 最後のゆとり教育の行は、ちょっと疑問。

ゆとり教育」の結果とされる学力低下が大きく注目されるようになった契機のひとつは「分数ができない大学生」という本でした。著者の岡部恒治氏と戸瀬信之は数学者、西村和雄氏は経済学者であって教育学者ではありません。別のきっかけはPISAの調査結果ですが、いずれも日本の教育界の外部からもたらされました。

と述べているが、「学力低下」の実態やPISAの調査結果の解釈には、議論があり、このページで述べられているような、「ゆとり教育主因説」は必ずしも当を得たものではないように思う。『分数ができない大学生』は私もチラッとだけ見たことがあるが、正直言って感心できるものではなかった。悪しきセンセーショナリズムを感じた。ゆとり教育の実施面はともかくとして、考え方自体には見るべきところがあると思うし、「ゆとり教育批判」側の主張が徒に復古的だったように思う。
 最終的に「ゆとり教育」「学力低下」論争は、右翼と左翼のイデオロギー的対立の道具担ってしまった感がある。同様に、ここでも教員養成課程の6年制化が政治的な論争の道具になっているように思う。確かに教員養成課程の延長には、問題点がある。その点で、前半は興味深かった。しかし、後半に入ると、結局のところ、民主党日教組バッシングへと変貌している。民主党に批判的なのはどうでもいいが、教育を政争の具に使う態度はいただけない。